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Wa☆Daフォトギャラリー

 旅紀行日本の祭り

2018年10月20日改訂

今 日

昨 日

♪獅子/邦楽鼓囃子

 

初春やはだかで埋まる國府宮   北舟

 
拡パノラマ写真(1950x900)446KB

Early spring,
Kouno-miya shrine overflowing with naked men.

2010年7月15日制作

日没の参道・・・神男を待つはだかたち

日没の参道・・・神男を待つはだかたち/國府宮愛知県稲沢市)

- 日本の伝統文化が息づく祭 -

 

日本祭百景【上巻】

如月

日本祭百景上巻 中巻 下巻 日本の祭り
正月上 正月下 如月上 如月下 弥 生 卯 月 和田義男
鐵砲洲節分祭
鐵砲洲稲荷神社
東京都中央区湊一丁目
平成19年(2007)2月3日(土)
撮影・制作:和田義男

 平成19年(2007)2月3日(土)節分の日、東京都中央区湊一丁目に鎮座する鐵砲洲稲荷神社で恒例の節分祭(せつぶんさい)が開かれた。鐵砲洲稲荷神社は江戸湊(えど・みなと)における土地生成の産土神(うぶすなのかみ)である生成太神(いなりのおおかみ)を祀る神社で、平安初期の承和(じょうわ)8年(841)以来1166年の歴史がある。
 午後4時頃から拝殿で式典が始まった。町内会単位で登殿した裃姿の氏子たちは、中川文隆(なかがわ・ふみたか)宮司(ぐうじ)のお祓いと祝詞奏上(のりとそうじょう)のあと、全員一人づつ玉串奉奠(たまぐしほうてん)を済ませ、福袋が入った三段重ねの2リットル枡(ます)を受け取り、神楽殿に向かった。
 午後4時過ぎから神楽殿で第一陣の撒き出し(まきだし)が始まった。東囃子がバックで江戸囃子を演奏するなか5〜6人ほどの単位で福袋に入った豆が撒かれた。毎年スーツ姿で司会をつとめる武蔵野稲荷神社の白石健宮司が豆撒役(まめまきやく)を紹介し、「福は内!鬼は外!」を連呼。集まった人たちは、福豆袋を沢山取ろうと手を伸ばし、帽子や紙袋を翳(かざ)すなどして、福袋の争奪戦を愉しんだ。
 フィナーレの豆撒きには、敬神婦人会と共に中川宮司も参加した。宮司の撒く福袋の中に大当りが入っているという噂も・・・。このあと、中川宮司の〆の挨拶があり、午後7時40分頃、節分祭の全ての行事が終わった。
  裃に枡の豆撒き江戸囃子  北舟 

かみしもに ますのまめまき えどばやし

Edo festival music, scattering beans out of masu box wearing formal kimono of Samurai.

江戸囃子をバックに第一陣の豆まき

江戸囃子をバックに第一陣の豆まき

パノラマ写真(2500x1000)462KB

宝光はだか祭
宝光院
岐阜県大垣市
平成20年(2008)2月3日(日)
撮影・制作:和田義男

 平成20年(2008)2月3日(日)節分の日、東京は大雪に見舞われたが、岐阜県大垣市(おおがきし)・宝光院(ほうこういん)(鈴木孝敬住職)において「節分会(せつぶんえ)はだか祭」が開催された。宝光院のはだか祭は古くから行われていたが、一時途切れていたところ、戦後になって先代の住職が復活させたという。その後、既に60年の歴史を積み重ねており、伝統の裸祭りとして全国的にも知られるようになった。昔の祭り装束を忠実に守っており、リーダーの指導力と相まって、統制の取れた美しい祭りに仕上がっている。
 裸男の一行約70名は、日の丸扇と笛を持ったリーダーを先頭に、午後1時20分ころ、宿の前で4人1組の一列縦隊となり、宝光院を目指してスクラム行進を始めた。午後1時23分、裸の一行は宝光院の境内に入り、大勢の観衆を前にスクラム行進を繰り返して気勢を挙げた。本堂外陣(げじん)でひとしきり錬り回った後、整列し、リーダーが不動真言(ふどうしんごん)などが書かれた祈祷文を声高らかに読み上げ、ひだりめ不動明王に参拝した。
 一行は境内で4回ほど裸練りを繰り返したあと、みそぎ川渡りのため土手の階段をのぼり、杭瀬川(くいせがわ)に入水して垢離を取った。杭瀬川は慶長5年(1600年)9月14日に行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦である「杭瀬川の戦い」で知られる。この戦いは局地戦だったが西軍が大勝し、東軍の総大将・徳川家康は辛酸を舐めたが、翌9月15日の関ヶ原本戦では東軍が勝利し、家康が天下を取った。以後、宝光院は徳川の御朱印地として歴代将軍の庇護を受けた。
 このあと、境内で心男・副心男の胴上げのあと、午後2時47分、鈴木孝敬住職により福俵が投下され、裸男たちによる激しい争奪戦が繰り広げられた。利剣木を手にした男が今年の福男となり、一年間の福を授かるとあって、大勢の裸男たちが福俵に殺到し、全身籾殻にまみれながら俵を引き裂いて手を差し入れ、利剣木を奪い合った。
  節分会白ふんどしの川渡  北舟 

せつぶんえ しろふんどしの かわわたり

A celebration for spring, River crossing with white loincloth.

  裸男たちによる

杭瀬川くいせがわ

のみそぎ 川渡がわわた

裸男たちによる杭瀬川のみそぎ川渡り

拡大写真(2000X1500)503KB
成佛寺修正鬼会
成佛寺
大分県国東市国東町
平成20年(2008)2月10日(日)-11日(月)
撮影・原作:清原 浩 監修:和田義男

 平成20年(2008)2月10日(日)から11日(月)にかけて大分県国東市(くにさきし)国東町成仏(じょうぶつ)に建つ天台宗龍下山(りゅうげさん)成佛寺(じょうぶつじ)で、国東半島の六郷満山(ろくごうまんざん)に伝わる修正鬼会(しゅじょう・おにえ)が開かれた。
 六郷満山に伝わる「修正鬼会」は、僧と村人たちが一体となり、夜を徹して無病息災、五穀豊穣を祈る伝統の行事で、養老年間(717〜724)に仁聞菩薩(にんもん・ぼさつ)が国家安穏・五穀豊穣・万民快楽の諸願成就のため、六郷28ヶ寺の僧侶を集めて「鬼会式六巻」を授けて創始したといわれ、1300年ほど昔の仏教文化を今に伝える奇祭である。
 この鬼会は、かつては六郷満山の天台宗の各寺で行われていたが、今では豊後高田市の天念寺(てんねんじ)と、国東市の岩戸寺・成沸寺(じょうぶつじ)の三ヵ寺だけとなった。西満山の天念寺では毎年開催されるが、東満山の岩戸寺と成沸寺では隔年(西暦奇数年が岩戸寺)で開催される。いずれも国指定重要無形民俗文化財である。
  正月や婆の手を取る鬼仏  北舟 

しょうがつや ばあのてをとる おにぼとけ

The New Year, Ogre the incarnation of Buddha taking the hands of old woman.

加持する 災払鬼さいばらおに

加持する災払鬼

拡大写真(1600X1200)347KB
  初春の振舞酒や三鬼人  北舟 

はつはるの ふるまいざけや さんきじん

Early spring, Hearty reception with sake for three ogres of men.

三鬼揃った祝宴! 06:00

三鬼揃った祝宴!

拡大写真(1600X1200)314KB
岩戸寺修正鬼会
岩戸寺
大分県国東市国東町
平成21年(2009)1月31日(土)-2月1日(日)
撮影・原作:清原 浩 監修:和田義男

 平成21年(2009)1月31日(土)から2月1日(日)にかけて大分県国東市国東町(くにさきし・くにさきまち)に建つ天台宗石立山(いしだてさん)岩戸寺(いわとじ)国東半島の六郷満山(ろくごうまんざん)に伝わる修正鬼会(しゅじょう・おにえ)が開かれた。
 昭和52年(1977)に国から重要無形民俗文化財に指定された鬼会は「鬼を追い払う」のではなく、「鬼に姿を変えた仏を出迎える。」「鬼に出会うことは鬼籍に入って成仏した祖先に出会うことで、祖先と楽しく過ごす。」という国東半島独自の宗教観を持つ。
 成佛寺の鬼会は、旧正月五日に開催されるが、岩戸寺の鬼会は、天念寺と同様、毎年旧正月七日(なぬか)に開催される。今年は2月1日に当たるが、7日正月(なぬかしょうがつ)と呼ばれ、元旦から始まった正月の終わりの日として、七草粥を食べたり、門松を外したりする。
 また、旧正月七日(なぬか)は、初薬師とも呼ばれ岩手県奥州市の黒石寺蘇民祭など、薬師如来を本尊とする寺院では、この日に年始めの盛大な祭礼を行う例が見受けられる。岩戸寺の鬼会は、前日の夜(今年は1月31日)から七日朝にかけて行われるのが特徴である。
  七日夜の川の阿迦汲褌の白  北舟 

なぬかよの かわのあかくみ こんのしろ

Taking a bucketful of river water at seventh night of the New Year, White is the loincloth.

輪になって廻る 災払鬼さいばらおに

輪になって廻る災払鬼

拡大写真(1800X1350)330KB
   初春の鬼の松明災払  北舟 

はつはるの おにのたいまつ さいばらい

An exorcism by ogre's torches in early spring.
仏壇と神棚のある家

仏壇と神棚のある家

拡大写真(2000X1500)565KB
 
天念寺修正鬼会
天念寺
大分県豊後高田市
平成19年(2007)2月24日(土)
撮影・原作:清原 浩 監修:和田義男

 平成19年(2007)2月24日(土)大分県豊後高田市(ぶんごたかだし)大字(おおあざ)長岩屋(ながいわや)に建つ天台宗の長岩屋山(ながいわやさん)天念寺(てんねんじ)で、国東(くにさき)半島の六郷満山(ろくごうまんざん)に伝わる修正鬼会(しゅじょう・おにえ)が開かれた。
 修正鬼会は、毎年旧正月7日に天念寺講堂の本尊・薬師如来の前で行われる祭礼である。午後3時頃から六郷満山に所在する寺院の僧侶たちが講堂に集まり、夕刻まで昼の勤行(ごんぎょう)が行われる。午後7時頃から災祓い鬼(さいばらいおに)(赤鬼)と荒鬼(あらおに)(黒鬼)役の僧侶とテイレシ(介錯)を務める若者たちが天念寺前の長岩屋川(ながいわやがわ)で身を清めるコーリトリ(垢離取り)が行われる。
 午後8時頃、祭り装束に身を包んだ若者たちは、公民館前で長さ5mの大松明(たいまつ)三本に火を付け、岩にぶつけて火の粉を散らし、講堂・権現社・本堂の前面に高々と翳(かざ)してタイアゲと呼ばれる火の儀式を行う。 間もなく僧侶たちが講堂に集まり、読経(どきょう)が始まり、夜の勤行(ごんぎょう)が行われる。午後9時頃から立役(たちやく)と呼ばれる行事に移り、囃子方の演奏にあわせて僧侶たちによる舞華(まいげ)、開白(かいはく)、香水(こうずい)、鈴鬼(すずおに)の法舞(ほうぶ)(仏教儀式の舞踊)が午後10時頃まで続く。
 午後10時頃になると災祓い鬼(さいばらいおに)(赤鬼)があらわれ、松明(たいまつ)を持って講堂内をあばれる。続いて荒鬼(あらおに)(黒鬼)があらわれ、クライマックスを迎える。堂内は松明の火の粉が飛び散り、煙が立ち込める。鬼の目餅が撒(ま)かれると、その争奪戦で騒然となり、最後に赤鬼・黒鬼が信者らの肩や尻を松明で叩き、無病息災の加地を与えて閉幕する。(国指定重要無形民俗文化財)
  篝火に浮かぶ白褌初薬師  北舟 

 かがりびに うかぶびゃっこん はつやくし

First Yakushi ritual this year, white fundoshi loincloths standing out by bonfires.
板間に茣蓙を敷いた講堂で昼の

勤行ごんぎょう

板間に茣蓙を敷いた講堂で昼の勤行

拡大写真(1800X1350)507KB
天念寺本堂における盃の儀 2009.2.1 19:30

天念寺本堂における盃の儀

拡大写真(1600X1200)352KB

大松明オーダイ

の火合わせ

大松明の火合わせ

拡大写真(1300X1600)229KB
  赤と黒鬼の押し合ふ初薬師  北舟 

あかとくろ おにのおしあう はつやくし

First Yakushi ritual this year, ogres of red and black pushing together.
赤鬼・黒鬼の法舞 2009.2.24 22:15

赤鬼・黒鬼の法舞

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栃堀裸押合大祭
巣守神社
新潟県長岡市(旧栃尾市)
平成20年(2008)2月9日(土)
撮影・制作:和田義男

 平成20年(2008)2月9日(土)、新潟県長岡市(旧栃尾市)栃堀(とちぼり)に鎮座する巣守神社(すもり・じんじゃ)で裸押合大祭が拓かれた。裸押合大祭が開かれる巣守神社は、栃堀ふるさと交流会館から歩いて数分のところにある。旧栃尾市一帯には、守門岳(すもんだけ)を祀る巣守神社や守門神社と呼ばれる神社が多い。同名の神社があるので、間違わないよう注意する必要がある。
 天正年間(1570年代)、上杉謙信が守門岳登山口の栃堀にある巣守神社に毘沙門天(びしゃもんてん)を祀り、戦勝祈願や五穀豊穣を願ったのが裸押合大祭の始まりといわれる。数年前までは1月15日に開催されていたが、事前の準備が大変なので、2月の第二土曜日になったという。新潟県南魚沼市(旧大和町)浦佐の裸押合大祭とあわせて、越後の二大押合大祭と呼ばれる。
 午後7時5分頃、太鼓の合図で裸押合大祭がはじまり、裸男たちは午後8時半頃まで「押(オ)ッセ、押(オ)ッセ」「サンヨ(撒与)、サンヨ」などと大声で掛け声を掛け合いながら、火照(ほて)った身体をぶつけ合い、揉み合いを繰り広げ、巣守神社本殿は熱気に包まれた。
 約1時間半の間に、270枚もの福札がばらまかれるので、50人で平均すると一人5枚は獲得できる数である。この福札は、終了後、ふるさと交流会館で一等賞の5万円をはじめ、家電製品など、豪華な景品と引き換えられるので、参加者の大きな楽しみとなっている。
  雪の里福札取りの白褌  北舟 

ゆきのさと ふくふだとりの しろふどし

A snow village, White loincloths for lucky plates.

ジャンプして富札を追う

ジャンプして富札を追う

拡大写真(1800X1350)461KB
 
國府宮はだか祭
國府宮
愛知県稲沢市
平成18年(2006)2月10日(金)
撮影:制作:和田義男

 平成18年(2006)2月10日(金)愛知県稲沢市(いなざわし)に鎮座する國府宮(こうのみや)で恒例の裸祭りが開かれた。國府宮の裸祭りは正しくは儺追神事(なおいしんじ)といい、毎年旧正月の13日に斎行される。儺追笹(なおいざさ)を奉納した裸男(はだかおとこ)たちが厄を落とすべく全裸の神男(しんおとこ)に触れようと揉み合う勇壮な祭りで、江戸時代の末頃から始まったという。今年は9千人のはだか男と14万人の観衆が國府宮に押し寄せ、大規模な裸のページェントが繰り広げられた。
 はだか連は、町内を練り歩いたあと、参道入口の石鳥居前の交差点にやってくると、ひとしきり練り上げた後、高々となおい笹を立て、気勢を上げる。その後、参道を練り歩き、楼門を通って國府宮になおい笹を奉納する。太陽が徐々に西に傾くころ、石鳥居前の参道入口は、三方から大勢のはだか連が先を争って乗り込み、なおい笹を携えて練り歩く光景が続き、はだかにもかかわらず、熱気溢れる祭りの佳境を迎えた。
 巨大な「なおい笹」が楼門を通過した後、参道は神男を待ち受けるはだか男たちで一杯になった。神男は参道のどこから入ってくるか分からないが、必ず楼門を通って儺追殿に向かうので、楼門付近が一番の混雑となる。
 手桶隊が参拝して参道に引き返したあと、間もなく神男が参道に現れ、はだか男たちが「ワッショイ!」「ワッショイ!」と声を掛けながら一斉に神男に殺到してはだかの渦が生まれた。今年の神男は神籤(みくじ)(御神籤 おみくじ)で選ばれた津田敏樹さん(31歳)。神男の警護役は水谷光晴さん(40歳)。
 午後5時13分、湯気を上げて徐々に楼門に向かってくるはだかの渦をレンズが捉えた。ぎりぎりの時刻である。午後5時18分、渦の中心が見物席の前にやってきた。はだか男たちが必死になって神男に触れようと群がっている様子を撮影することができた。
  初春やはだかで埋まる國府宮  北舟 

はつはるや  はだかでうまる  こうのみや

Early spring, Kouno-miya shrine overflowing with naked men.

日没の参道・・・神男を待つはだかたち(午後5時5分)

日没の参道・・・神男を待つはだかたち

パノラマ写真(1950x900)446KB

  国府宮全裸の神に厄落  北舟 

こうのみや ぜんらのかみに やくおとし

Kouno-miya shrine, Exorcism by touching the naked God.

楼門に達した渦(午後5時21分)

楼門に達した渦

拡大写真(1400x720)188KB

今尾左義長祭
秋葉神社
岐阜県海津市
平成20年(2008)2月11日(月)
撮影・原作:市川 清 監修:和田義男

 平成20年(2008)2月11日(月)岐阜県海津市(かいづし)平田町今尾(ひらたちょう・いまお)に鎮座する秋葉(あきば)神社において、岐阜県から重要無形民俗文化財の指定を受けている左義長(さぎちょう)祭りが開かれた。左義長は「どんど」ともいい、正月の門松を焼き、歳神を常世の国(とこよのくに)へ送り返すため神事である。かつて、朝廷では、清涼殿の庭に青竹を束ね、扇子や短冊を結び付け、陰陽師(おんみょうじ)が謡い囃し、これを燃やして祝い、豊作を占ったという。
 今尾の左義長祭はいつ頃から始められたかは明らかでないが明和4年(1767)亥正月に秋葉神社が創建された以前から行われていたという記録が残されている。安政5年(1858)、領主の諸事万端倹約令により、左義長が差止められたところ、その年また大火が起こり、秋葉神社付近で火が止まったので、再び左義長が許されて、火難災難厄除けの祭りとして再興した。

 午後1時ころ、宮元の町内の左義長(青竹御輿)が真っ先に境内に引き込まれると、宮司の手から神前の忌火(いむび)が氏子総代の介添えによって裃姿に威儀を正した年番代表のとりつぎ藁に移される。待ちかまえていた若衆は、手に手に藁で火を受けて左義長に移すと、千本近い青竹から火炎が燃え上がる。
 ポンポンと青竹御輿の爆竹の音が神域一杯にこだまして祭りは最高潮となり派手な化粧と色襦袢を着た若者たちが火の粉の中を駈け回る光景は勇壮極まりない。七分通り燃えたところで、その年の恵方(えほう)の方へ倒し、その倒れ方によって吉凶を占う。その後きれいに灰除けをすると、待ち構えた二十余町の青竹御輿が次から次へと繰り込み、午後6時ころまで勇壮な炎の特殊神事である左義長焼きが続く。
左義長の 歌舞伎かぶき ものたち

左義長の歌舞伎ものたち

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立源寺水行
立源寺
東京都目黒区
平成21年(2009)2月10日(火)
撮影・制作:和田義男

 平成21年(2009)2月10日(火)午後1時半から東京都目黒区の日蓮宗・立源寺(りゅうげんじ)で水行式と大祈祷会(だいきとうえ)が開かれた。水行式に先立ち、「東京立源寺」「目黒同心会」と書かれた半纏を羽織った壇信徒たちが団扇太鼓(うちわだいこ)を手に境内に仮設された水行場に参集。団扇太鼓の演奏や江戸っ子の文化である纏舞(まといまい)を披露した。
 今年、全国の日蓮宗寺院から千葉県市川市中山にある正中山法華経寺(しょうちゅうざん・ほけきょうじ)に入行(にゅうぎょう)した荒行僧は175人。昨年11月1日から2月10日までの100日間、日蓮宗大荒行堂(だいあらぎょうどう)で、過酷な荒行を修めた。壇信徒や寺院関係者たちは、「行僧(ぎょうそう)さん」と親しげに呼んでいる荒行僧たちだが、全国に散らばる日蓮宗寺院の住職を務める上人(しょうにん)という高僧が多い。
 荒行僧たちは、千葉県中山の法華経寺で昨年の11月1日から100日間、俗界から総ての縁を断ち、1日に7回冷水をかぶり、3時間の睡眠と朝夕2回の粥と精進料理だけの「百日行(ひゃくにちぎょう)」という厳しい修業を積んできた。立源寺の水行式に姿を現した僧侶は、太田順道伝師(おおたじゅんどう・でんし)と10名の行僧たちの計11名。伝師を上座にして、5名づつ左右に位置し、水盤と呼ばれる仮設水槽に対峙(たいじ)した。荒行僧たちは、白衣を脱いで褌一丁の裸形になり、大荒行堂で100日間実施してきたものと全く同じ作法の水行を披露し、本堂で開催される大祈祷会(だいきとうえ)に参列の後、晴れて出身の寺院に帰ることができる。10人の荒行僧たちは、太田伝師の作法に合わせ、水行肝文(すいぎょうかんもん)を唱えながら注連縄(しめなわ)と薦(こも)を巡らした水盤(水槽)から水行桶(手桶)で水を汲み、反動をつけて頭上から背後の首筋に一気に水を浴びせた。

 水行式が終わった後、立源寺本堂で大祈祷会が開かれた。荒行僧と呼ばれる彼らは、正確には加持祈祷を行う修法師(しゅほっし)である。日蓮宗の僧侶のうち、100日間の荒行を満行した者は、伝師(でんし)(加持祈祷の師範)から秘法を受け、宗務総長より修法師として任命される。加持祈祷のあと、行者たちは信者の前に並び、石井骰N住職による祝辞があったあと、太田順道伝師と10人の行僧たちの紹介と挨拶があり、多くの壇信徒たちが本堂を埋めた大祈祷会は盛況のうちにお開きとなった。
  梅が香や江戸っ子信徒の纏舞  北舟 

うめがかや えどっこしんとの まといまい

A scent of plum, believers of traditional Tokyoite dancing with Matoi.

スプラッシュ!

スプラッシュ!

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  白褌の僧成満の寒の垢離  北舟 

びゃっこんの そうじょうまんの かんのこり

Buddhist priests of white loincloth, Cold water purification for the achievement.

祈祷 2 祈祷 5
 
長勝寺・寒の荒行
長勝寺
神奈川県鎌倉市
平成16年(2004)2月11日(水)
撮影:制作:和田義男

 荒行僧(あらぎょうそう)の水行(すいぎょう)が見られるというので、2004年2月11日(水)建国記念の日に鎌倉の長勝寺に行った。JR横須賀線・鎌倉駅東口3番線のバスに乗り、5分ほどでバス停・長勝寺に着く。長勝寺の入口は直ぐそばにある。
 冬の鎌倉観光の一つ「長勝寺の荒行」は、「立正安国国祷会(りっしょうあんこく・こくとうえ)」に組み込まれた「大荒行僧成満祭(だいあらぎょうそう・じょうまんさい)」の中で行われる。国祷会は、法華経の流布と世界平和、檀信徒一般大衆の抜苦与楽(ばっくよらく)(苦しみを除き、真の安楽を与える)を祈念する行事である。成満祭は、極寒の100日間の荒行が満了し、荒行僧が出身の寺に帰る帰山式であり、日蓮ゆかりの地で最後の水行が行われる。長勝寺の好意により、この水行が公開されており、鎌倉の冬の風物詩となっている。

 毎年、全国の日蓮宗の寺院から正中山法華経寺に派遣される荒行僧は100人を超えるという。今年は130人ほどが昨年11月1日から2月10日までの100日間、荒行堂に入行し、厳しい荒行を修めた。荒行僧になるには、日蓮宗の僧侶のうち修法規程に沿ったものに限られ、厳しい修行に耐えうる体力と精神力が要求される。
 荒行僧の一日は、早朝2時半に起床し、朝3時の一番の水から3時間毎に午後11時まで1日7回、寒水に身を清める「水行」をはじめ、「万巻の読経」、「木釼(ぼっけん)相承」、相伝書の「書写行」がある。食事は朝夕2回、梅干し1個と白粥だけという。冷たい水を浴び、お粥を食べ、死ぬほどの厳しい修行を通じて罪を悔い改め、心から反省するならば、生まれ変わったように尊い身となるという。
  寒の空水行僧の褌の白  北舟 

かんのそら すいぎょうそうの こんのしろ

Sky of the coldest seazon, White of the loincloth the buddist bathing.

気合い

気合い

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▲▼ 鎌倉の長勝寺では、正中山法華経寺で大荒行成満会が行われた翌日に成満祭が執り行われる。毎年30人ほどが参加するそうで、今年は23人だった。荒行僧は、大荒行堂で100日間実施してきた水行と全く同じ作法の水行を披露したあと、出身の寺院に帰って行く。今日は彼らにとって思い出深い晴れやかな日なのである。
 1回の水行は水行肝文という経文を唱えながら7〜8回首の後部に冷水をかぶる。水行肝文とは帝釈天などの諸天善神(しょてんぜんじん)の御加護と六根清浄を祈るものだという。グループ毎に導師役がいるので、その指示により整然とした水行がおこなわれる。1回の水行は10分ほど。次のグループの水行も8名の荒行僧により、同様の手順でおこなわれた。

背伸び

飛 沫

背伸び 飛 沫

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妙法輪寺寒の荒行
妙法輪寺
石川県羽咋郡宝達志水町
平成19年(2007)2月16日(金)
撮影・原作:蓮野 渉 監修:和田義男
荒行僧の先頭を行く大森教生上人 手桶で水を汲む

 平成19年(2007)2月16日(金)、石川県羽咋郡(はくいぐん)宝達志水町(ほうだつしみずちょう)麦生(むんぎょ)の日蓮宗宝栄山(ほうえいざん)妙法輪寺(みょうほうりんじ)において12人の荒行僧による帰山奉告式大祈祷会が開かれた。
 今回、全国の日蓮宗寺院から千葉県市川市中山にある正中山法華経寺(しょうちゅうざん・ほけきょうじ)に入行(にゅうぎょう)した荒行僧は183人。昨年11月1日から2月10日までの100日間、日蓮宗大荒行堂(だいあらぎょうどう)で、過酷な荒行を修めた。今年妙法輪寺から住職の大森教裕上人の子息・大森教生上人が初めての荒行(初行)に参加して見事に成満(じょうまん)。この日同じ荒行を修めた11人の上人と共に帰還し、妙法輪寺で大祈祷会が催行されたもの。

 大森住職によると、今年入行した183名の修行僧のうち途中脱落者が7名もあり、うち1名は入院後死亡したという。まさに殉職者が出るほどの命賭けの行である。年々脱落者が増えているとのことで、知育偏重教育による体力不足や、少子化による忍耐力の低下などの要因が考えられるが、いずれにしても豊かな生活を享受する日本の世相を反映していることだけは確かなようである。
 白髪の修法師・堀田龍顕上人は今年も参籠し、遂に第十行(10回の荒行)を成満した。比叡山千日回峰の阿闍梨(あじゃり)のように千日水行を達成した修法師は極めて貴重な存在で、この日、信者らの尊敬と注目を浴びた。
   白褌の行者白髪寒禊    北舟 

びゃっこんの ぎょうじゃはくはつ かんみそぎ

Purification with water in the cold season,
The ascetic of a white loincloth,
has white hair on his head and a white beard.

一斉に冷水を浴びる

一斉に冷水を浴びる

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