|
|
|
|
|
|
5月4日(日)午後、子供神輿の連合渡御が行われた。午後2時から神社境内で行われる連合渡御出発式にあわせて、各町会の子供たちが担ぐ中小神輿が次々と宮入りしてきた。 |
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600X1050)308KB |
|
|
|
|
|
|
湊一丁目と二丁目からなる宮元には、中・小2基の神輿があり、中神輿は高学年用、小神輿は低学年用である。 |
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600X1200)358KB |
|
|
|
|
拡大写真(1600X1200)362KB |
|
|
|
|
拡大写真(1600X1200)470KB |
|
|
|
|
拡大写真(1400X1050)334KB |
|
|
|
|
拡大写真(1600X1150)417KB |
|
|
|
みこしかき あかねだすきの ほうしたい |
Portable shrine carriers, supporters of red sashes. |
|
|
|
|
拡大写真(1400X1050)276KB |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
明石町には巨大な十字架のタワーを持つ財団法人・聖路加国際病院がある。この病院名は、使徒パウロの協力者の一人で、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされるルカの漢字表記からとられている。 |
そのため、正しくは「せいるか」というが、「せいろか」としか読めないので、職員も通称にあわせているという。ワープロソフト一太郎では「せいろか」も「せいるか」も共に聖路加と変換される。 |
種々のメディアで高い評価を受けており、宮家、皇族の縁者、文化人、財界人などが利用する病院としても有名。戦前、旧病棟の建設に皇室から多額の資金が下賜されるなど、歴史的に皇室との関係が深い。財団法人としての初代理事長は渋沢栄一が勤めた。 |
|
|
|
|
十字架の立つ |
聖路加 |
国際病院(中央区明石町) |
|
|
拡大写真(1400x1050)383KB |
|
|
|
|
|
|
トイスラー記念館 |
|
聖路加国際病院の敷地には、ひっそりと佇む瀟洒な洋館が建っている。病院の創設者ルドルフ・トイスラー博士が使っていた宣教師館で、隅田川畔に建っていたのを昭和63年(1988)に解体し、創建当時の施工技術や構造を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いて、平成10年(1998)に聖路加国際病院の敷地内に移築復元された。 手入れの行き届いた庭があり、小川も流れている異空間である。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
聖路加国際病院のそばに浅野内匠頭邸址の石碑がある。播州赤穂(ばんしゅうあこう)(兵庫県) 5万石の赤穂藩・浅野家の江戸上屋敷があったところで、西と南は築地川に面し、広さは8,900坪余りあったという。 |
元禄14年(1701) 3月14日、藩主・浅野長矩(あさの・ながのり)が江戸城中・松の廊下で吉良義央(きら・よしひさ)に刃傷に及び、 即日切腹となり、江戸屋敷や領地などは全て取り上げられて浅野家は断絶した。 |
城代家老・大石良雄を中心に した家臣の仇討は有名で、 蔓延元年(1748) の大坂での浄瑠璃 「仮名手本忠臣蔵」を皮切りに数々の芝居、映画にこの事件を描いた[忠臣蔵」が取り上げられ、庶民の根強い人気を得ている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
鐵砲洲稲荷神社の門前道の一路東側の道は、吉良邸討ち入り後、赤穂義士が通った道として語り継がれている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
聖路加国際病院のそばに「慶應義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」という二つの石碑があり、日本近代文化事始めの地として紹介されている。この地は明和8年(1771)豊前国(ぶぜんのくに)中津藩(なかつはん)(大分県中津市)の医師・前野良沢(まえの・りょうたく)らがオランダ語に翻訳されたドイツの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を初めて読んだ由緒ある場所だという。 |
|
|
|
|
|
慶應義塾発祥の地 |
蘭学の泉はここに |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
慶應義塾の起源は、安政4年(1858)に福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾*(かじゅく)に由来する。その場所がこの石碑より北東の聖路加国際病院の構内に当たるという。 |
*家塾(かじゅく):学識者が自宅を学舎として門弟を教育するために開設した教育施設。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
中央区立あかつき公園 |
|
明石町には、新緑が瑞々しい中央区立あかつき公園がある。霧のような間欠噴水が爽やかさを演出している。この公園の一角に、中央区教育委員会が建てたシーボルトの胸像がある。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
シーボルト胸像 |
|
シーボルトの胸像のそばに、中央区教育委員会が石碑を建立した趣意書が掲げられている。以下全文。 |
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796〜1866)は、オランダの商館医員として文政6年(1823)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、新河岸川(しんがしがわ)・石神井川(しゃくじいがわ)・神田川(かんだがわ)などの支流河川が合流して東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。古くは承和2年(835)の太政官符に「住田河」と記されており、「宮古川」などとも呼ばれていた。 |
|
|
|
|
隅田川 |
と |
大川端 |
リバーシティ21 |
|
|
拡大写真(1800x1200)437KB |
|
|
|
|
|
|
江戸時代に入ると、浅草寺(せんそうじ)そばの吾妻橋(あづまばし)周辺より下流は大川(おおかわ)とも呼ばれた。大川右岸、特に吾妻橋周辺から新大橋周辺までを大川端(おおかわばた)といわれた。元・佃島に建つ高層マンション群は大川端リバーシティ21と称しているが、当時は佃島であって、大川端ではない。写真上の緑の橋は、明石町から隅田川に架かる佃大橋である。近年は、旅客を満載した水上バスの往来が多い。 |
|
|
|
|
|
佃大橋 |
のたもとにある |
佃島渡船場跡 |
(中央区湊三丁目) |
|
|
|
|
|
|