撮影:小林豊一
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バブル期の地上げによって多くの住民が町を去り、テナントビル街に姿を変え、古くからの商店は数えるほどになっている。現在、昼間人口は約5400人、夜間人口は約230人。最近は飲食店なども増え、夜も賑わいを見せるようになりつつあるが、大企業やJRA/WINS銀座で賑わう昼の喧噪に比べれば、嘘のように静かな町だという。 |
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撮影:小林豊一 |
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町会活動は、婦人部、青年部を両輪として活発に行われており、特に祭礼に関しては、台輪寸法2尺5寸の町神輿を保有し、京橋四之部連合町会の中でも中心的役割を担っている。 |
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銀座二丁目東の神輿で遊ぶ子供たち 2005.5.4 |
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裸祭りの作品でお馴染みの三木芳樹さん(浦安市)は、この日、銀二の神輿を担いだ。4年前、本サイトを通じて知り合った三木さんから平成17年(2005)の寒中水浴大会に誘われたことから鐵砲洲との交流が始まった。 |
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写真提供:三木芳樹 |
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銀座一丁目東町会 |
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台輪寸法2尺5寸の町神輿を保有する銀座一丁目東町会は、銀座一丁目〜八丁目東(旧木挽町)の最北端に位置し、木挽町の伝統文化をこよなく愛する江戸っ子たちが誇りをもって暮らしている。 |
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記念撮影/銀座一丁目東 2008.5.5 12:50
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撮影:小林豊一 |
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これからも研鑚を重ね、この江戸より四百年も続く伝統文化を次代につなぐためにも、ビルの谷間に「和し背負へ・わっしょい」の声を響かせようと張り切っている。 |
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資料:Google Earth |
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ニ百数十人の櫓下(やぐらした)の綺麗どころ、新富町の芸者衆が妍(けん)を競っていたのは昔の話。時代は移り、新富町もかつての花柳界から大小のビルが立ち並ぶ昼間のビル街へと変貌しつつある。 |
昔は一丁目、二丁目、三丁目と分かれていた住所表示が、一、二丁目が二丁目と変更され、それがやがて「新富町」として一つの町会にまとまった。 |
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撮影:小林豊一 |
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鐵砲洲稲荷神社の例大祭は、神輿や山車の運行を睦会(むつみかい)に委託し、町、商店、睦の三者一体で「新富祭典委員会」を組織して運営しているという。町神輿は台輪寸法3尺の立派なもの。 |
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気勢をあげる睦会の男たち/新富町 2008.5.5 14:10
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新富と書かれた駒札(こまふだ)を掲げた神輿は、台輪(だいわ)寸法が三尺(91cm)あり、昭和2年(1927)浅草の
宮本卯之助が造った。豪華な梨地塗*(なしじぬり)屋根の四面それぞれに左三つ巴紋が三つ付けられている。 |
*梨地塗(なしじぬり):漆塗り面に金銀粉を蒔き、仕上げに透漆を塗って果実の梨肌のように表現する技法。 |
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台輪寸法2尺の入船一丁目の神輿には「行徳、後藤直光」の銘があるが、戦前いつ造られたかは不明である。 |
口伝によると、この神輿は入船一〜三丁目が連合で製作して担いでいたが、担ぎ手が多過ぎて担げない人が大勢いたため、昭和29年(1954)に三丁目が、昭和31年(1956)に二丁目がそれぞれ神輿を新調した。その結果、一丁目が由緒ある神輿を譲り受けて現在に至っているという。 |
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町内を巡行する御本社神輿/入船一丁目 2008.5.5 14:45
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撮影:小林豊一 |
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入船町は、以前、新栄町と呼ばれていたころから各町が合同で一つの神輿を所有して担いでいたが、終戦後景気が戻り、各町の担ぎ手も増えたため、昭和31年(1956)に行徳後藤直光の手により新調され、以来、入船二丁目の神輿として渡御している。 |
総素木(そうしらき)、延軒(のべのき)屋根、勾欄造り、台輪2尺5寸の町神輿としては大きな神輿である。麻でできた太い飾り網は形状も美しく、大勢の担ぎ手の息が合ったとき、その房の揺れは神輿の美しさを一層引き立てる。 |
ここ数年、町内の人口減少に伴い、氏子の数も少なくなってしまったが、祭りの成功にかける意気込みは昔も今も変わっていないという。 |
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熟年パワー/入船二丁目 2008.5.5 15:05
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江戸期のこの辺りは武家地で、町としての歴史は明治以降になる。 明治元年に入船町と新栄町が生まれ、そのうち新栄町四、五丁目の全域と入船町四、五丁目の一部が現在の入船三丁目の地域にあたるという。 |
現在、切妻の御仮屋をきちんと建て、隣に若い衆溜りを作り、祭礼期間中は青年部が交互で泊り込んで「お灯守り」とよばれる不寝番で台輪寸法2尺3寸の町神輿を守っている。 |
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神輿渡御を楽しむ人たち/入船三丁目 2008.5.5 15:45
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入三のお揃いは首抜き浴衣*。それも本格的な平袖で、帯も角帯ではなく三尺を用い、キチンと前で結んでいる。 |
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*首抜き浴衣(くびぬき・ゆかた)(首抜き):首から肩にかけて大胆に紋を染め抜いた絵羽浴衣**。
**絵羽浴衣(えばゆかた):襟や袖を縫い合わせて模様がぴったり合った(絵羽柄の)浴衣。 |
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歌舞伎座で町神輿を差す入船三丁目の氏子たち 2005.5.4
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明石町の地名は、万治元年(1658)の海手築地埋め立て完成後、播州国明石浜の漁師が幕府の許可を受けて移り住んだところからきたとの説と、明石浦の風景に似ていたとの二説がある。 |
明治元年(1868)東京府支庁があった明石町と船松町、十軒町の土地を分け合わせて上地し、外国人居留地となった。明治6年(1873)に居留地全体が新たに明石町と命名された。 |
その後、明治32年(1899)に入舟町、新栄町、新湊町の一部がそれぞれ区画整理によって明石町に併合されて現在の町域となったという。 |
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聖路加国際病院を通過/明石町 2008.5.5 16:00
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明石町は、居留地の影響もあり、文明開化の薫り高い史跡や江戸の旧跡があちこちに残されている。指紋研究発祥の地、米国公使館跡、電信創業の地、浅野匠頭屋敷跡、蘭学事始の地、慶應義塾開塾の地、芥川龍之介生誕の地など、都の重要文化財にも指定されている豊かな歴史の宝庫である。 |
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明石町会は、台輪寸法2尺の神輿を保有する。 |
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中央区明石町にある地上200mの聖路加タワーは、「聖路加ライフサイエンスセンター構想」の一翼をになう聖路加ガーデンのオフィス棟として平成6年(1994)に誕生した。都心とは思えないほどゆったりした空間と、首都東京を360度に見渡せるパノラマの眺望が素晴らしいという。 |
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聖路加タワーの下を進む御本社神輿 2008.5.5 16:20
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わっしょいの こだますびるや みこしかき |
Raising a portable shrine,
'Wasshoi!' echoing through the buildings. |
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かつて鐵砲洲の河口に位置し、沖に向かって船待ちするところから、江戸の洒落で船松町(ふなまつちょう)と呼ばれた。明治、大正を経て、昭和17年(1944)、船松町と新湊三丁目が合併されて湊三丁目となった。 |
昭和39年(1964)、佃大橋が完成し、佃の渡しがなくなるとともに、昔日の町の佇まいや風情が大きく変わった。しかし、関東大震災、東京大空襲など、隅田川で亡くなった人たちを手厚く弔ってきた町の人々の心は、今もお盆の無縁様供養として受け継がれている。 |
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ビルの谷間で一本締め / 湊三丁目 2008.5.5 16:25
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鐵砲洲稲荷神社によると、手締めのはじめに「いよー!」と発声するが、これは「いわおう(祝おう)」が語源とのこと。「よよよい よよよい よよよい よい」と十回手を打つことを一本締め又は十締め(とおじめ)という。 |
手を九回打って、その後1回打つのは、九の字にゝ(ちょん)を付けて丸という字にするためだという。十拍手により、丸く収まったことを祝うのが手締めの意味である。なお、一拍手だけの手締めは、関東一本締めと呼ばれるもので、江戸っ子の手締めではない。 |
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「歴史は古し鐵砲洲、佃の渡しや防波堤、流れは今日も隅田川、戦火をのがれ復興に、五月の空に澄み渡る、粋な若衆の勇み肌、江戸の名残りの祭礼に、われらの神輿は湊三」 昭和53年(1978)、町会30周年につくられた歌の一節である。台輪寸法2尺5寸の町神輿を保有する湊三町会の祭りにかける意気込みは熱い。 |
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