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 旅紀行日本の祭り

2010年1月31日改訂

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♪江戸祭囃子/「仁羽」

拡大写真(1400x1050)440KB

料亭の青竹靡く神輿渡御  北舟
Procession of the portable shrine,
Green bamboos bending at the first-class restaurant.

2008年5月19日制作

料亭「金田中」を通過/銀座六・七丁目東

料亭「金田中」を通過/銀座六・七丁目東(鐵砲洲稲荷神社/東京都中央区)

 
鐵砲洲稲荷神社神紋   鐵砲洲稲荷神社   鐵砲洲稲荷神社神紋
 

江戸っ子!鐵砲洲大祭

金田中

 
かつての

木挽町こびきちょう

 慶長17年(1612)江戸城下に三十軒堀が開削されその東側に南北に細長い木挽町(こびきちょう)が生まれた。その名の由来は江戸城築城のとき、木挽き職人を多く住まわせたためといわれている。明治になって新しい行政区分が作られると、第一大区十小区京橋四之部に属した。銀座一丁目から八丁目東地区を現在も京橋四之部と呼んでいる所以である。
 伊達家鍋島家の大名屋敷旗本屋敷江戸歌舞伎の森田屋山村屋(現在の歌舞伎座、新橋演舞場)があり、近年では、日本初のフライ級世界チャンピオン白井良雄を育てたボクシングホールもあった。南西には、粋な花柳界、今も老舗の料亭が営業している。
 昭和27年(1952)に鐵砲洲稲荷神社例大祭が復活。当時は表と陰の隔年で、ウイークデーでも行われていた。鳳輦(ほうれん)が船で京橋川(きょうばしがわ)、築地川(つきじがわ)を巡幸し船から長い竿の先で器用にお賽銭を受け取る風景が見られたという。現在は3年に一度になったが、歌舞伎座の好意による玄関前での連合渡御は圧巻である。

銀座八丁目・出発地点付近の地名表示写真

拡大写真(2044X1414)1.01MB 資料:Google Earth
   一行が神輿渡御の出発地点に到着すると、御本社神輿は台車から馬(神輿台)に降ろされ、午前10時過ぎから銀座八丁目東の中央区立銀座中学校が見える路上で、お祓いが行われた。
祝詞のりと を奏上する中川宮司/銀座八丁目東 2008.5.5 10:15

祝詞を奏上する中川宮司/銀座八丁目東

拡大写真(1400X1050)352KB
  御本社の六年ぶりの神輿渡御 北舟 

ごほんしゃの ろくねんぶりの みこしとぎょ

Procession of the shrine-owned mikoshi since six years ago.
高野辰明崇敬会理事長の挨拶

高野辰明崇敬会理事長の挨拶

 

宮司の白馬

 この白馬は、中川文隆宮司を乗せて、終日、御本社神輿の後を随行する。目が美しく、子供たちが近寄っても危害を加えないよう訓練されているらしく、とてもおとなしい。レンタル業者から借り入れた馬で、舎人(とねり)の白衣を纏った付き人がお供する。
宮司の白馬

宮司の白馬

拡大写真(1200X1600)371KB
 

随行する騎馬宮司

 脚立と舎人の助けを借りて乗馬した中川文隆宮司は、とてもサマになっていて、まるで平安時代から抜け出てきたような凛々しい騎馬宮司となった。御本社神輿の御霊を守る宮司の並々ならぬ意気込みが感じられた。
馬上の中川文隆宮司

馬上の中川文隆宮司

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オリンパスE-3のライブビューで撮影中の筆者

オリンパスE-3のライブビューで撮影中の筆者

 

撮影:小林豊一

   神事が終わった午前10時20分過ぎ、御本社神輿は最初の担ぎ手である銀座八丁目東の氏子たちに担がれて、銀座中学校前を出発、隣接の銀座六・七丁目東に向かった。
銀座中学校前を出発/銀座八丁目東 2008.5.5 10:25

銀座中学校前を出発/銀座八丁目東

 

銀座八丁目東町会

 台輪(だいわ)寸法1尺8寸の小ぶりの町神輿を保有する銀座八丁目東町会には、銀座中学校があり、銀座といっても一般的に抱く銀座のイメージとは違って、とても落ち着いた雰囲気の町並みである。
御本社神輿の後ろを進む騎馬宮司/銀座八丁目東

御本社神輿の後ろを進む騎馬宮司/銀座八丁目東

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   かつては煉瓦造りの逓信省があったが、現在は住民の数が少なく、部外者の力を頼まないと神輿が上がらない。この状況は他の町会でも同じである。地元では御本社神輿渡御の出発点がこの町会にあることを誇りに思っている。
銀座八丁目東の神輿差し/歌舞伎座(銀座四丁目東)

銀座八丁目東の神輿差し/歌舞伎座(銀座四丁目東)

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海上保安庁海洋情報部・朝日新聞本社を通過/銀座八丁目東 2008.5.5 10:45

海上保安庁海洋情報部・朝日新聞本社を通過/銀座八丁目東

 

銀座六・七丁目東町会

 この町会は旧木挽町(こびきちょう)六丁目・七丁目の昭和通りの東南側に位置する。六丁目は明治期に商工省の官庁があり、その流れで、日産自動車、電源開発といった大会社で占められ、また、七丁目は新橋演舞場や金田中(かねたなか)に代表される粋筋の料亭街が広がっている。
 このため、実際に住んでいる人は非常に少なく、町会員数は70人弱、住居の戸数は20戸を割っている。台輪寸法が2尺の町神輿は、昭和31年(1956)に完成。当時の先人達は、人口が減ることを念頭に、小振りだが豪華さを目指したという。
発進の木入れ/銀座六・七丁目東 2008.5.5 10:50

発進の木入れ/銀座六・七丁目東

 

金田中かねたなか

 金田中(かねたなか)は、中央区銀座七丁目に本店を置く老舗料亭。吉兆(きっちょう)、新喜楽と並び、日本三大料理屋の一つとされる。大正時代に新橋の花柳界で創業した。因みに、船場吉兆は客の食べ残しを使いまわしていたスキャンダルが発覚し、地にまみれてしまったが・・・。  金田中公式サイト 
料亭「金田中」を通過/銀座六・七丁目東 2008.5.5 10:55

料亭「金田中」を通過/銀座六・七丁目東

拡大写真(1400x1050)440KB
  料亭の青竹靡く神輿渡御  北舟 

りょうていの あおたけなびく みこしとぎょ

Procession of the portable shrine,
Green bamboos bending at the first-class restaurant.

 

新橋演舞場しんばしえんぶじょう

 中央区銀座六丁目にある新橋演舞場は、大阪の演舞場や京都の歌舞練場を手本に新橋芸者の技芸向上を披露する場として大正12年(1923)に建設された。開場以来、春秋二季に新橋芸妓による「東をどり」を主に公演。
 昭和15年(1940)に帝国劇場を失った松竹が代替劇場として使用開始。以降歌舞伎、新派劇、松竹新喜劇、新国劇、前進座や歌手芝居などを上演。松竹の主要劇場として現在に至っている。
新橋演舞場を通過/銀座六・七丁目東 2008.5.5 11:00

新橋演舞場を通過/銀座六・七丁目東

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御幣と拍子木を渡して神輿を引き継ぐ/銀座五丁目東 2008.5.5 11:20

御幣と拍子木を渡して神輿を引き継ぐ/銀座五丁目東

 

撮影:小林豊一

 

銀座五丁目東町会

 元は木挽町(こびきちょう)五丁目町会で、その組織を受け継いだ銀座五丁目東町会は、現在、33世帯、夜間人口58名と空洞化が進み、ビジネスビルの建ち並ぶ銀座町会の典型である。
 そんな中でも祭礼には町会役員14名全員が誠心誠意奉仕している。戦前にあった町神輿は松戸市内の町会へ寄贈したため、神輿はなく、子供神輿はリースで対応しているという。
半纏・褌姿の睦会/銀座五丁目東

半纏・褌姿の睦会/銀座五丁目東

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