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▼ 明石町は東京都中央区の地名で、旧京橋区の地域内である。明治元年(1868)東京府支庁があった明石町と船松町、十軒町の土地を分け合わせて上地し、外国人居留地となった。明治6年(1873)に居留地全体が新たに明石町と命名された。 |
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資料:鐵砲洲稲荷神社弥生会 |
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▲▼ その後、明治32年(1899)に入舟町、新栄町、新湊町の一部がそれぞれ区画整理によって明石町に併合されて現在の町域となったという。 |
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▼ 明石町は、隅田川河口部の西岸に位置し、北隣の湊と合わせて鐵砲洲と俗称されるほか、広義の築地に含められることがある。下の絵は、文久2年(1862)の鐵砲洲の様子を描いたもので、画面上部の隅田川沿いににアメリカなどの外国の旗と建物が描かれており、外国人居留地であったことが分かる。 |
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資料 |
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明石町という地名は、万治元年(1658)の海手築地埋め立て完成後、播州国明石浜の漁師が幕府の許可を受けて移り住んだところからきたとの説と、明石浦の風景に似ていたとの二説がある。 |
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▼▲ 江戸時代には、中津藩奥平家の中屋敷があり、前野良沢らが解体新書を完成させたため、蘭学事始の地とされる。また、同屋敷は、安政5年(1858)に福沢諭吉が慶應義塾の前身となる蘭学塾を開いた地でもある。 |
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そのほかにも明石町には、文明開化の薫り高い史跡や江戸の旧跡があちこちに残されている。指紋研究発祥の地、米国公使館跡、電信創業の地、浅野匠頭屋敷跡、芥川龍之介生誕の地など、都の重要文化財にも指定されている豊かな歴史の宝庫である。 |
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明石町に位置する聖路加国際病院は、東京都災害拠点病院で、「せいるかこくさいびょういん」と発音するのが正式。病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされるルカの漢字表記からとられている。漢字表記が適切でないために「せいろか」と俗称されている。 |
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平成7年(1995)3月20日に発生した地下鉄サリン事件では、ロビーや廊下など広いスペースを利用して多くの患者を受け入れ、救護活動に当たったことが高く評価されている。 |
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神輿を先導する鐵砲洲囃子のメンバーたち/明石町 16:38
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↓片山英治代表 |
↓渡邉浩徒先生 |
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撮影:小林豊一 |
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▼ 聖路加タワーは、聖路加国際病院の敷地の最も隅田川寄りの区画に建設された超高層ビル棟である。47階建てと38階建てのツインタワーとなっており、空中回廊で結ばれている。 |
47階建ての棟の3・4階には予防医療センター(人間ドック)があり、その上部はオフィスフロアとして賃貸されている。最上部には展望レストラン「Luke」(聖ルカの意)があり、また、日本テレビとフジテレビの定点観測カメラが東京湾岸の状況を中継するために設置されている。 |
38階建ての棟は、下から約4分の3は医療介護付き居住施設の聖路加レジデンスで、約4分の1の最上部には東京新阪急ホテル築地が入居している。 |
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聖路加タワーをバックに北上する神輿/湊三丁目町会
16:50
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撮影:小林豊一 |
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▲▼ 神輿渡御も終盤に入り、湊三丁目に入って北上するにつれて古い民家が現れ、下町の雰囲気が漂う中、神輿はゴールの鐵砲洲稲荷神社に向けて進んでいった。 |
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▼ 日が西に傾いた午後5時半ころ、隅田川の東側の佃島に建つ大川端リバーシティ21(おおかわばたリバーシティにじゅういち)ののっぽビルが見えた。大川端リバーシティ21は、8棟の超高層マンションを中心とする大規模住宅群で佃島の古い町並みと近代的なのっぽマンションとの対比で知られる。 大川端リバーシティ21 |
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佃島・大川端リバーシティ21をバックに渡御する神輿/湊三丁目
17:26
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▼ 神輿渡御が湊一・二の宮元町会に入ると、御本社神輿を先導する鐵砲洲囃子の前に宮元町会の心意気を示す婦人部の提灯行列が加わって、華やかさが加わった。 |
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神輿を先導する宮元町会婦人部たち/宮元町会
17:37
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▲ 午後6時10分頃、宮元町会が担ぐ神輿が神社前に現れた。あたりは薄暗くなり、提灯に火が入った。いよいよ神輿渡御のフィナーレが近づいたので、筆者は石鳥居の正面に設置した脚立の上にあがり、宮入りを待つことにした。 |
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汗だくで神輿を担ぐ江戸っ子たち/宮元町会 18:32
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撮影:星宏幸 |
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▼ 宮元町会のメンバーに担がれた神輿は、湊湯の前で停止し、一本締めのあと、Uターンして神社を目指した。 |
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石川辰夫・副統括責任者(弥生会幹事長) |
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撮影:小林豊一 |
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▼ 午後6時50分頃、宮元町会に担がれた御本社神輿は、20分遅れで鉄砲洲稲荷神社の石鳥居前に帰還した。 |
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▼ 弥生会のメンバーに引き継がれた御本社神輿は、氏子17ヵ町の提灯の前から右折し、石鳥居に向かった。 |
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撮影:小林豊一 |
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かんぎょせし いなりみこしや しろばんてん |
White hantens, Inari mikoshi has returned. |
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弥生会会員たちに担がれて宮入りする御本社神輿/鐵砲洲稲荷神社 18:52
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▲▼ 今年は弥生会のご配慮により、神社入口の正面に背の高い脚立を立てて頂き、その上に坐って宮出し・宮入りを激写することができた。最高の位置にある特別席から撮影した画像は素晴らしく、御鎮座1170年を祝う東京は下町・鐵砲洲の江戸っ子たちの粋で鯔背な夏祭りを余すことなく切り取ることができた。 |
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▼ 10時間12kmの旅を終えて境内に入った御本社神輿は、拝殿前の馬に乗せられ、午後7時過ぎから厳かに還御祭が執り行われ、中川宮司の祝詞奏上や関係者の玉串奉奠などが行われた。 |
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▼ 最後に、江戸消防記念館第一区六番組(かつての「す組」)の若宮英敏組頭はじめ親方衆による木遣りが奏上され、鐵砲洲稲荷神社の神幸祭は、無事お開きとなった。 |
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↓若宮英俊組頭(江戸消防記念館第一区六番組) |
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撮影:小林豊一 |
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