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2月25日(日)午前5時36分頃、蘇民袋争奪戦の渦は本堂外陣(げじん)の外に出た。石段から参道を下って門前道に出、そこから西(右)に進んで国道343号に向かった。 |
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門前道が国道343号に交わるところに妙見山黒石寺と大きく書かれた案内塔あり、裸の集団が国道に入る前にクレーンに使われる吊り上げ用の丈夫なベルトが登場し、渦を取り囲み、その進行方向をコントロールし始めた。 |
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ベルトで規制された裸の集団は、その中で揉み合いを続けながら国道343号を西に進み、あらかじめ決まっている決戦場に向かった。最終決戦地は、黒石寺西方約800mの国道南側にある畑地である。 |
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昔はソミヒキと呼ばれ、争奪戦の渦が東に向かうか西に向かうかで、新年の作柄を占う*という要素があったが、車道を進むことになると、警察による交通規制が必要となり、行事許可を得るために経路指定をしなければならないので、事前に最終決戦地を決めておくことになったものと思われる。毎年変更するのも警備上大変なので、固定されたものであろう。 |
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*新年の作柄を占う:寺より東側になれば東側の地区が豊作となり、西側なら西側の地区が豊作となる。 |
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消防団員たちがベルトを引っ張って渦を目的地に誘導するので、渦の後部の力士はベルトで背中や腰を圧迫されて、「イタイ、イタイ」と悲鳴をあげる人もいた。 |
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やがて夜が明け、あたりが明るくなってきた頃、いつもの終着地である畑に下り、最後の決戦が始まった。 |
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私は渦の後方から撮影していたが、既に先行して場所取りをしている人が殆ど。ところが、畑から土手の方に渦がUターンし、私の目の前に渦が現れた。そのお陰で、低い土手の斜面から覗き込むようにして高見の見物をする格好となり、決定的なシーンを撮影することができた。 |
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取主の判定のために、次のような規定がある。 |
(1) 自力で他を振り払い、袋を御護所(鐘楼堂一階の警備本部)に届けた者(取主)
(2) 最後まで袋の締め口を持ち続けた者(取主)
(3) 最後まで取主の次を持ち続けている者(準取主若干名)
(4) 最後まで袋の一部分を持ち続けた者のうち締め口に近い方から順位が決められる。(三位以下)
(5) 種々の事情で判定困難なときは審判団で協議して決定される。
(6) 順位の番号札は口にくわえさせる。 |
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幾重にも折り重なる人の層をはがしながら判定作業を行う審判たち
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↓審判 ↓審判 |
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↓審判 |
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ポスターの昇ちゃんがくわえているのは取札の空札(からふだ)で5cmx2cmx5mmほどの木札である。蘇民袋争奪戦に最後まで加わり、判定時に袋に触っていた者や触れなくても最後まであきらめずに重なっていた者に、審判がお前は取主(とりぬし)ではないからもうあきらめろと言って、上に重なっている者から順に口に押し込んでくれる。 |
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↓昇ちゃん |
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空札(からふだ)は何も書いておらず、空札をくわえた時点で争奪戦の渦から体を離さなければならない。蘇民袋の締め口の部分を最後まで握っていた取主には、蘇民袋と引替えに取主を証する取札が口に押し込まれる。 |
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最後まで渦に残った人は、番号のない空札(からふだ)が与えられるが、最近は人数が多いので、札が無くても警備本部にいって申告すれば、参加賞がもらえる。記念に空札を持ち帰る人もいて、札が足らなくなっているという。 |
表彰は、鐘楼堂の警備本部で行われる。取主には米俵一俵などの賞品があるほか、準取主や最後まで渦に残った力士たちにも取札(とりふだ)と交換に参加賞として記念品が与えられる。 |
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今年の争奪戦は午前6時33分に取主が決定し、蘇民祭の5行事全てが終わった。約2時間にわたる争奪戦を戦い抜いた力士たちは、精進小屋で着替えた後、警備本部に集合し、ゴマと焼き味噌のおにぎり2個と漬け物の入った弁当をもらって、朝食をとった。希望者には清酒が振る舞われた。 |
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午前7時10分、藤波住職がマイクを握って賞状を読み上げ、取主と準取主の表彰が行われた。住職のマイクを持つ手が寒冷地の徹夜のお勤めで真っ赤になっていたのが印象的だった。 |
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今年の取主となった鈴木長一さん(48歳)に藤波住職から賞状が授与され、30kgの米が入った米俵1俵と参加賞の記念品などが青年部役員から手渡された。 |
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見事取主の栄誉に輝いた鈴木さんは、岩手県遠野市(とおのし)宮守町下鱒沢(みやもりちょう・しもますざわ)の方で、鐘楼の前でマスコミの取材を受けていたので、終わった後、我々の小屋の前で記念写真を撮らせていただいた。 |
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遠野市は、岩手県内陸部にあり、日本の民俗学の草分けである柳田國男の名作「遠野物語」や河童や座敷童子(ざしきわらし)で有名な「遠野民話」などで全国的に知られる町である。 |
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最後まで争奪戦の渦に残った力士たちに渡された参加賞は、「寺志」と書かれた白封筒に収められた御札(おふだ)とゴブラン織だった。御札は、長さ19cmの和紙に「家内安全」と「五穀豊穣」の間に「薬師護摩供之札 黒石寺」と書かれて朱印が押されていた。 |
ゴブラン織りは縦 28cm x 横 30cm のサイズで、亥年(いどし)にふさわしいイノシシのデザイン。壁掛け・壁飾り、テーブルクロス、花瓶の下敷きなどに使える。以前は、蘇民袋を切り分けて配られていたという。 |
写真は記念に山さんからプレゼントされたもので、今年還暦を迎えた筆者には嬉しい贈り物である。 |
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撮影
2007年2月24-25日(土-日)
★★★
OLYMPUS
E-330 E-500
11-22mm 14-54mm
800万画素 2200枚 3.5GB
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天下一の奇祭 |
今日は黒石寺蘇民祭が終わってから丁度二週間目の日曜日。その間、速報版を仕上げ、祭りの感動が冷めやらないうちに、完成版の編集に連日深夜まで作業を続けた。 |
寝なくてはいけないと思っても眠たくないし、寝ても早朝目覚めてしまう。これほど気合いが入った作品は初めてで、この「黒石寺蘇民祭」は、現在私の持てる全ての力を結集して創り上げた感動の超大作である。 |
黒石寺の蘇民祭は、それほどまでに素晴らしい魅力があり、天下一の奇祭と折り紙をつけるにふさわしい千年祭である。 |
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編集後記 |
二刀流で夢中で撮影した結果、一晩で800万画素2200枚3.5メガを切り取っていた。フラッシュ撮影が主となることから、予備電池を沢山持参した。予想外に消耗が激しかったが、何とか間に合った。 |
先日、DVDに全ての原画を焼いて藤波住職にお送りしたところ、「DVD、確かに頂戴いたしました。ありがとうございました。よくぞ長時間にわたり、これだけの枚数を撮ったものだと感歎するばかりです。その執念と根性に完全に脱帽です。ゆっくりと活用させていただきます。」とお礼のメールを頂いて、恐縮してしまった。 |
夜は-8℃に冷え込むなど、厳しい環境だったが、やっているときは、カッカしており、ホカロンなどを持参し、防寒の備えが十分だったので、寒さはそれほど感じなかった。精進小屋も炭火が強力で温かく、無料で使わせてもらったので、大変助かった。水洗トイレも完備しており、売店や食堂、自動販売機もあり、不自由はない。 |
今年正月の金沢での裸放水の取材は、暴風雨の洗礼を受けた厳しい取材だったが、それを思うと、蘇民祭は案ずるより産むが易しで、徹夜の長時間取材ではあったが、きついと思ったことはなく、取材環境はとても良かった。今年撮影できなかったところがあるので、来年も取材して、更に完璧を期したいと思っている。 |
参考文献 |
1 「みちのくの古刹 天台宗妙見山黒石寺」 監修:妙見山黒石寺 三十九世 藤波洋香 制作・発行:光陽美術
初版 2006.2.8 定価:1000円
2 「蘇民将来子孫門戸☆」(黒石寺パンフレット) 解説・写真:末武保政 水沢印刷 1983.4 非売品
3 「東奥の奇祭 妙見山 黒石寺蘇民祭のすべて」 黒石寺蘇民祭保存協力会 解説:佐藤東吉 写真:佐々木
稔 発行:1982.1
(筆者注:文献3は、「フンドシをつけた全裸で」と「全裸で」との表現があり、褌をしていても全裸としているので、「全裸で」と書かれていても、丸裸なのか、褌着用なのかが分からないところがあり、惜しまれる。私の本作品で素裸とあるのは、褌もしていない丸裸(全裸、赤裸)のことである。) |
本作品の要目 |
日本の裸祭り第34集(実質第54集)「黒石寺蘇民祭」 |
平成19年(2007)
作品:第10作 画像:(大103+小36) 頁数:10 総ファイル数:286 ファイル容量:44.3MB |
平成12年(2000)〜平成19年(2007)
作品数:301 頁数:1,047 ファイル数:26,693 ファイル容量:3,568MB |
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謝 辞 |
この取材の成功は、山本さんたちをご紹介いただいた三木芳樹さんのお陰であり、最初にお礼申し上げます。そして、山さんこと山本啓一さんや昇ちゃんこと長谷川昇司さんなど、密着取材させていただいた方々のご指導とご支援のたまものであり、心からお礼申し上げます。また、黒石寺の藤波洋香住職や黒石寺蘇民祭保存協力会青年部幹部の皆様方から並々ならぬご配慮を賜り、大変お世話になりました。 |
特に、藤波住職からは、解説の誤りをご指摘頂き、懇切丁寧なご指導を賜ったお陰で、最新の正確な説明を加えることができました。また、3月13日には黒石寺公式ホームページのリンク集にWa☆Daフォトギャラリー(黒石寺蘇民祭)のリンクを収録して頂いたことは夢のようで、誠に光栄に思います。 |
末筆ではありますが、日本の民俗文化の誇りである黒石寺蘇民祭の変わらぬ伝統の存続と発展を衷心より祈念申し上げ、今後とも微力ではありますが、影ながら応援させて頂きたいと思っています。これからもどうか宜しくお願い申し上げます。有り難うございました。 2007.3.14 〈 合掌 〉 |
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青年部と個人グループの貢献 |
参加者がせいぜい100人程度の小さな地方の祭りが、これほどまでに有名になって全国に認知されるようになったのは、30年前に黒石寺蘇民祭保存協力会青年部ができ、廃れかけていた千年余の歴史ある伝統行事の保存伝承に立ち上がったことが大きい。 |
今年は青年部発足30周年の節目に当たり、青年部が3月7日に地元の胆江(たんこう)日日新聞の胆江日日文化賞を受賞されたことを、心からお喜び申し上げたい。 |
しかし、今年で28回目の参加となる山さんは、青年部がわずか5人ほどの勢力で発足して間もなく初参加し、素朴で大らかな蘇民祭の魅力に惹かれ、爾来、青年部に協力して伝統の復活に尽力してきたというから、青年部の幹部が彼を大事にするのは当然であり、それに賛同して協力してきた昇ちゃんやKUMAちゃんなど個人グループの貢献も高く評価したいと思う。 |
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これからも存続する蘇民祭 |
internetで黒石寺蘇民祭を検索すると、色々なサイトで蘇民祭について書かれた記事を目にするが、そのなかで、「黒石寺蘇民祭が存亡の危機にある」という記事を目にした。確かに、数えで7歳の鬼子がなかなか見つからなかったり、外部からの参加で支えられている側面があるが、人手不足は東京の三社祭などでもみな同じ状況にある。 |
それだけの理由では、誰も存続の危機に瀕しているなどとは思わない。特に蘇民祭の場合は、人望の厚い藤波住職のもとで、盤石の実行部隊である青年部40人のほか、山さんなど伝統を守るグループがしっかりと根付いており、国から指定を受けた「記録保存すべき無形民俗文化財」であるこの蘇民祭が廃れるようなことはあり得ない。 |
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昇ちゃんの蘇民祭 |
私が心配するのは、このおおらかな祭りが、変質してゆくということである。数年前から素裸で参加することを自粛する動きがみられ、今年、素裸で裸参りをした人は、昇ちゃんを含めて僅か二人であった。昇ちゃんは、伝統に従って三巡目で素裸になり、その後柴燈木(ひたき)に上がって素裸で山内節を披露した。 |
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昇ちゃんの熱唱!「山内節」 |
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画像をクリックすると山内節が聞けます! |
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しかし、事後、昇ちゃんは警察から褌を締めるよう注意を受けた。藤波住職が健全な蘇民祭を永続させるために苦渋の決断をしていたことを知った昇ちゃんは、ショックを隠しきれないでいたが、住職の意を酌んで、来年から素裸を止めることにした。そのため、来年の蘇民祭から素裸で参加する人はいなくなり、褌だけの裸祭りになる。 |
全裸ということで奇祭といわれ、全国的に知られるようになった黒石寺の蘇民祭は、その弊害として興味本位の参加者が増え、風紀が乱れ、全裸ビデオが流れて、アダルトサイトなどで悪用されるなど、公序良俗に反する弊害が指摘されてきた。藤波住職もこれ以上伝統文化だとして固持できないと判断されたものと思われる。 |
記録保存すべき国の無形民俗文化財であるだけに、私ばかりでなく、蘇民祭の伝統を守るために献身してきた山本グループや有識者たちは、日本の祭りのおおらかな原点が失われることの重大性に鑑みれば、どうしても割り切れない気持ちが残ることはいなめない。地元にも賛否両論がある。 |
しかし、時代の変遷による価値観の多様化や映像文化の発達などに伴い、伝統文化も時代の要請に合わせて変質してゆかざるを得ない状況にあり、黒石寺住職の決断は、現実的選択と思われる。 |
私の予測では、今後、鬼子を背負う人、袋出しをする人、袋に刀を入れる人などの「役持ち」は素裸の伝統を保持し、観衆の面前で裸参り・柴燈木登・蘇民袋争奪戦に参加する者には褌が義務づけられるものと見られる。 |
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愛知県稲沢市(いなざわし)の 國府宮はだか祭 では、最後に全裸の神男(しんおとこ)が現れるが、9千人のはだか男は全員褌を着用しており、黒石寺蘇民祭もそのような形になるものと思われる。ともあれ、一般参加者の素裸が無くなったとしても、それ以外の伝統文化は大手を振って存続させることができるわけで、蘇民祭を末代まで健全に伝えてゆけることが約束されたともいえよう。 |
そして、昇ちゃんは、蘇民祭千余年の歴史の中で、柴燈木の上で素裸で山内節を唄った最後の男として、永遠に語り継がれてゆくことになる。昇ちゃん、長い間ご苦労さま、そして、おめでとう! これからは、褌を締め直して誰に憚ることなく山内節を唄って欲しい。 |
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黒石寺蘇民祭の参加者は、以前は全裸も許容されていたが、現在は「下帯」が義務づけられ、蘇民袋争奪戦では「下帯・足袋」の着用となっている。ここでいう下帯は、白晒し木綿の六尺褌のことで、前袋式に締めている。裸参りや柴燈木登では、前垂れ式に締めている人がいるが、ごく少数である。売店では、「黒石寺蘇民祭」の朱印が押された白晒木綿の褌と地下足袋が1セット2000円で売られている。 |
25年前に黒石寺蘇民祭保存協力会が発行した「東奥の奇祭 妙見山 黒石寺蘇民祭のすべて」には、「フンドシ」と表現されており、その後、いつの間にか「下帯」という言葉に変わっている。国指定無形民俗文化財の祭りであってみれば、「下帯」という表現は伝統の変質であり、正しい「褌」という呼称に戻して欲しい。正確に表現すれば、「白色木綿地の六尺褌」とし、朱印を入れた正規のものを「蘇民褌」という呼称にすることをお勧めする。 |
「下帯」は褌を婉曲に表現する言葉であるが、曖昧な表現であり、江戸時代の文献によると、一般大衆はみな褌と呼び、「褌を締めてかかる」や「人の褌で相撲を取る」などの比喩は今でも使われている生きた言葉である。 |
現在、褌が健康肌着として静かなブームを呼んでいるが、インターネットやデパートなどでも、褌、六尺褌、越中褌などとして売られており、下帯として売られている例は殆ど見あたらない。 |
かつては、NHKなど、一部のマスコミが褌を望ましくない放送用語として扱い、「下帯」や「締め込み」などという曖昧な表現を使っていた。いわば、一部のマスコミが作り出した偏見であったが、最近はNHKも由緒ある「ふんどし」を使う例が増え、正しい日本語が復活している。
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NHKの「ふんどし」報道 |
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今年8年ぶりに西大寺会陽の後に黒石寺蘇民祭が開催されたたため、西大寺会陽のまわし姿で参加した岡山のグループがいたが、違和感を感じたので、青年部に問い合わせてみたところ、来年から「まわし」は禁止するということであった。祭り衣装のあり方は、表現も含めて、代々黒石寺に伝わる伝統文化を維持して頂きたい。 |
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苛酷な蘇民祭 |
暖冬で雪は無いとはいえ、-8℃の深夜に褌一丁で三度境内を巡回して水垢離をし、柴燈木登で火の粉や煙を浴び、早朝には2時間にわたって蘇民袋争奪戦を繰り広げる蘇民祭は、とても苛酷な祭礼である。参加者に聞いてみると、無傷の人は皆無で、足の痺(しびれ)れや痛みは共通しており、精進小屋の炭火で温めて感覚が戻るかどうかといったところである。 |
山本グループで一番ダメージが大きかったのがKUMAちゃん。足の凍傷が一番酷く、水沢江刺駅ではびっこを引き、電車を待つ間、足のマッサージをしていた。そのほかに柴燈木登で身体のあちこちに火傷を受け、飛び降りたときの打撲や擦り傷・切り傷があり、争奪戦では筋肉痛になったそうで、回復に1週間ほどかかったという。 |
KUMAちゃんの他にびっこを引く人は見かけなかったが、足のダメージは共通しており、程度の差はあっても軽い凍傷にかかるようである。祭りの最中は興奮しているので、感覚がないが、終わってから感覚が戻ってくると、痛みや痺れを感じるようで、KUMAちゃんも争奪戦が終わるまではびっこを引いていなかったのに、終わってからびっこを引くようになった。それでも翌年には参加するので、彼らは毎度のことと意に介していないようである。 |
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感動の蘇民祭 |
2001年10月、友人から誘われて、初めて兵庫県姫路市の灘のけんか祭りを見て、男らしい裸祭りの素晴らしさに魅了された私は、それ以来、全国の裸祭りの取材を続け、次々に作品を発表し、日本の裸褌文化を紹介してきた。 |
まだ7年しか経っていないが、これまでに最高の感動を受けたのが、この蘇民祭である。天台密教や修験道などが習合し、東北のこの地で独自の文化を育んできた蘇民祭は、梵鐘、法螺、太鼓、角燈、手木などを用い、僧侶や信者たちが列をなして独特の作法や呪文で魔を払いながら境内を巡る。特に山の神や農神であるともいわれる鬼子の登場は奇抜である。 |
何といっても素晴らしいのは、裸の男たちが厳寒の中で雪解け水を浴び、柴燈木(ひたき)に上って火の粉や煙を浴びて身を清めつつ声高らかに山内節を唄い、蘇民袋を求めて裸のぶつかり合いを見せることである。 |
厳寒地の深夜に行われる蘇民祭は、奇祭といわれるにふさわし魅力が沢山あるが、とりわけ、日本の祭祀のおおらかな原点が残されており、千年余もの歴史を刻んで今日に存続してきた重みがある。参加者たちは、徹夜の行事の合間に精進小屋の炭火を囲んで酒を酌み交わし、歓談しながら苦楽をともにする。こゝには男たちの裸の交流があり、都会に住む現代人が失ってしまった感動とロマンがある。〈 完 〉 2007.03.11 和田義男 |
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