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十二月の裸褌祭 ★☆★彡
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大野八幡神社やんさ祭 |
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大野八幡神社 |
大分県中津市耶馬溪町 |
平成21年(2009)12月2日(水) |
撮影・原作:清原 浩 監修:和田義男 |
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平成21年(2009)12月2日(水)夜、大分県中津市耶馬溪町(なかつし・やばけいまち)に鎮座する大野八幡神社(おおの・はちまんじんじゃ)で600年の歴史を有する「やんさ祭」が行われた。 |
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「やんさ祭」は、毎年12月2日の寒中の夜に大野八幡神社で行われる勇壮な裸の餅つき祭りである。大野八幡神社は、鶴ヶ岡八幡宮とも称し、応神天皇(おうじんてんのう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、此淘蜷_(ひめおおかみ)(宗像三女神)を祀る神社で、応永元年(1394)後小松天皇の御世に、下毛郡(しもげぐん)野仲郷(のなかごう)の長岩(ながいわ)城主・野中能登守弘道が相模国(さがみのくに)鎌倉より鶴ヶ岡八幡宮の神霊を勧請して当郷の守護神と崇めたのが始まりという。 |
この神社に鶴ヶ岡八幡宮の神霊を勧請した際、野中の若侍33人が鏡餅を搗(つ)いて神前に供えたのが「やんさ祭」の始まりという。新暦11月30日から12月2日までの3日間にわたり行われる大野八幡神社の霜月*祭(しもずきまつり)の別称が「やんさ祭」で、最終日の12月2日の夜、33人の氏子が褌(ふんどし)一丁の裸形になり、「やんさ、やんさ」とはやしながら餅をつく神事が行われる。
*霜月(しもづき):11月 |
この行事を伝えた野中氏は、かつては豊前の豪族として下毛(しもげ)、上毛(かみげ)、宇佐(うさ)の三郡を支配していたが、23代野中兵庫頭鎮兼に至り、天正16年(1588)、中津城主・黒田孝高・長政父子により攻め滅ぼされたが、この行事は、その後も村人たちにより受け継がれ、今日に至っているという。 |
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びゃっこんの やんさやんさと きねのもち |
Wearing white loincloths, pounding a rice cake with mallets, shouting yansa
yansa!
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▲▼ 「やんさ祭」は、33人に因んで決められた3升3合3勺(約5kg )の餅米(もちごめ)を蒸し、褌衆が「やんさ、やんさ」と掛け声をかけながら6尺(1.8m)の樫(かし)の杵棒(きねぼう)と木臼(きうす)で7臼半の餅を搗(つ)く。つき終わると臼を守る座元側(モト方)とこれを倒そうとする氏子側(ウラ方)の二手に分かれ、水を撒(ま)いた境内で泥んこになって揉み合う臼倒しが行われる。 |
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裸の男たちによって搗き上げられた厄除餅(やくよけもち)は、厄を払い、無病息災の御利益(ごりやく)があるとされ、参拝客が競って手にした。 |
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しんぜんの もちつきぼうや しろふどし |
Wearing white loincloths, pounding a rice cake with mallets, shouting yansa
yansa!
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▼ 厄除餅が配られて、裸の男たちによる餅つきが終わると、臼倒しに移り、臼を守る座元側(モト方)とこれを倒そうとする氏子側(ウラ方)の二手に分かれて、揉み合いが始まった。 |
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臼倒しの最中に座元側が水を撒くので、氏子たちは、泥まみれの熱戦を繰り広げることになる。これは、水を撒くと足が滑って力が入りにくくなるので、攻撃を和らげるための作戦だという。 |
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この木臼をめぐる壮烈な攻防戦がやんさ祭のクライマックスで、臼を倒すとウラ方の地区が豊作になるが、引き分けるとどちらも豊作になるため、毎年引き分けて豊作を祈願する。「やんさ祭」は昭和51年(1976)耶馬溪町(現中津市)により無形民俗文化財に指定されている。 |
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もちつきや うすをたおさん ふどししゅう |
Pounding rice cakes, Men of white loincloths trying to put the mortar down.
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下香楽円座餅つき |
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清地神社 |
福岡県築上郡築城町 |
平成16年(2004)12月5日(日) |
撮影・原作:ちばあきお 制作:和田義男 |
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平成16年(2004)12月5日(日)、福岡県築上郡(ちくじょうぐん)築城町(ついきまち)の下香楽(しもこうらく)公民館で円座(えんざ)餅つきが行われた。JR小倉駅から40分ほどで日豊本線(にっぽうほんせん) 築城(ついき)駅に着く。駅前からタクシーで15分ほどかかる。 |
円座餅つきは、築城町大字下香楽に鎮座する清地神社(すがちじんじゃ)の例大祭の神事である。清地神社は天疫神社(てんえきじんじゃ)とも呼ばれ、祭神・須佐之男命(すさのおのみこと)らが災害や疫病から下香楽の氏子を護る氏神である。 |
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円座餅つきは、清地(すがち)神社の祭礼の準備で里人が集い、神餞(しんせん 神に供える飲食物)の鏡餅(かがみもち)をつく段になったとき、我も我もと希望者が多く、杵(きね)の奪い合いとなったたため、餅搗(もちつき)ができなくなり、一同やむなく、ありあわせの棒切れを持ち寄り、臼(うす)に差入れて搗(つ)いたのが始まりといわれる。 |
始まりは不明だが、記録に表れたのは江戸時代の享保元年(1716年)という。300年近く続くこの古式懐しい神事は、昭和30年(1955)、福岡県から無形民俗文化財に指定された。 |
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▲▼ 十数名の褌一丁の男たちが搗手(つきて)になり、円座餅つき音頭(えんざもちつきおんど)に合わせて「ヨイサ、ヨイサ」と掛け声をかけながら臼の周りを時計回りに移動しながら樫の棒で餅をつく。円座餅つき音頭は三番まであり、一番唄い終わる毎に臼練り(うすねり)と呼ばれる臼の奪い合いを行う。 |
一番臼は12重ね(閏年は13重ね)の鏡餅、二番臼は空臼(からうす)、三番臼は白餅に12束(閏年は13束)の新藁(しんわら)を入れた藁餅(わらもち)をつく。餅は神に奉納するために搗くが、実際は見物客にすべて配られる。 |
三番臼を搗き終わり、最後の激しい臼練りを経て、座と呼ばれる注連縄(しめなわ)を張った臼収め場に臼が収められると、円座餅つきは終了する。 |
行事は全て下香楽(しもこうらく)公民館で行われるが、昭和59年(1984)に祭りの改正が行われる前までは、座元(ざもと)(行事担当役)の家で行い、臼を座元の座敷に納めて臼練りを終了していたという。 |
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▲▼ 最後の三番臼では、白餅の中に今年収穫したばかりの12束(閏年は13束)の新藁(しんわら)を入れて搗き込む。寒風に晒されながらも元気よく藁餅をつく男たちの頭上に新藁が投げかけられる。 |
男たちは藁まみれになりながらも円座餅つき音頭の三番にあわせ、五穀豊穰の祈願と感謝の気持ちを込めて餅をつきあげる。この藁入りの餅も有り難くいただくという。 |
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▲▼ 5分ほどで藁餅をつきあげると、最後の臼練りに入る。最大の見せ場であり、臼が座に据えられるまで、迫力ある争奪戦が繰り広げられる。三番臼からは力水もかけられ、裸の男たちは濡れ鼠になりながら臼を争う。 |
臼練りの最中にも、力水とともに藁束が裸の集団に投げかけられる。力水ならぬ力藁といったところだろうか。臼練りの場を浄める意味もありそうで、農村の祭りならではの面白い風習である。 |
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池ノ上みそぎ祭 |
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葛懸神社 |
岐阜県岐阜市池ノ上町 |
平成19年(2007)12月8日(土) |
撮影・制作:和田義男 |
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平成19年(2007)12月8日(土)、晴天に恵まれた岐阜市池ノ上町に鎮座する葛懸(かつらがけ)神社で毎年12月第二土曜日に開催される「池ノ上みそぎ祭」が催行された。 |
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「池ノ上みそぎ祭」は「池ノ上はだか祭」とも呼ばれるが、正式には「池上宮禊祭(いけのうえぐう・みそぎまつり)(葛懸神社禊祭)」といい、池上宮禊祭祭典委員会が主催する例祭で、600年以上の歴史があり、特に応永年間(1394)に発生した「応永の大飢饉」以後は重要な祭儀となり、その後大洪水に見舞われた天文3年(1534)までは神社前の大池でみそぎを行っていたと伝わっている。 |
この「みそぎ祓(はらい)」は、古来より旧暦10月(神無月(かんなづき))晦日(みそか)に身体を長良川の清流で清め、罪穢れを払い、家族の幸せと繁栄を祈願して神を迎える神事であり、現在は12月第二土曜日に行われている。 |
大正3年(1914)以後、それまでの全裸から褌を用いるようになり、祭元(まつりもと)(裸の会場)は禰宜(ねぎ)宅の民家が使われ、祭元に限って女人禁制とされた。現在は、神社に隣接する池ノ上公民館が祭元となっている。 |
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岐阜市内を西流する長良川(岐阜城天守閣からの眺望) |
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▲ 岐阜城天守閣からの眺望は素晴らしい。眼下の岐阜市内を西流する長良川は、北アルプスの大日岳(だいにちだけ)(2,501m)に源を発し、三重県を経て伊勢湾に注ぐ木曽川水系の一級河川である。濃尾(のうび)平野を流れる木曽川(きそがわ)、揖斐川(いびがわ)と共に木曽三川(きそさんせん)の一つとして知られる。 |
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長良川の清流は特に有名で、柿田川(かきたがわ)、四万十川(しまんとがわ)と共に日本三大清流の一つに数えられている。昭和60年(1985)に中流域が「名水百選」に選ばれ、また、平成13年(2001)には、鵜飼(うかい)が行われる長良橋(ながらばし)から上流約1kmまでの水浴場が全国で唯一河川の水浴場として「日本の水浴場88選」に選定された。年間総流量は約40億m3。 |
ちなみに、長良川における鵜飼(うかい)は日本唯一の皇室御用の鵜飼で、長良川の鵜匠は職名を宮内庁式部職鵜匠という。長良川の鵜飼用具一式122点は国指定重要有形民俗文化財であり、また、長良川鵜飼漁法は岐阜市指定無形民俗文化財となっている。 |
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かんみそぎ おとなふんどし こらもしめ |
Winter purification ritual, children also wearing fundoshi loincloth
for adalts. |
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「池上宮みそぎまつり」の鉢巻と厄除褌を締めた子供たち
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「池ノ上みそぎ祭」は、中部地方では「國府宮(こうのみや)はだか祭」とともに知られる裸祭りで、翌日の中日新聞と岐阜新聞の朝刊は、ともに対岸から入浴シーンを撮影したカラー写真を第一面に掲載して報道していた。 |
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「福」をもたらす神木/宝木(しんぎ)を奪い合う岡山や四国の会陽(えよう)と呼ばれる裸祭りに対して、「池ノ上みそぎ祭」では、裸の群の中心となる神男(しんおとこ)が「みそぎ」を主催し、参加者全員が斎戒沐浴して厄払いする追儺(ついな)神事であり、最後に、家族の幸せと繁栄を祈願して神を迎える「お神迎え」が行われる。 |
愛知の「國府宮(こうのみや)はだか祭」は、数千の裸男たちがその渦の中心にいる全裸の神男(しんおとこ)に触れて厄を落とす追儺(ついな)神事で、神男(しんおとこ)は、厄を一身に背負う存在であり、神男の役割は全く異なる。 |
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長良川沿いの道路を進む裸の集団
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「池ノ上みそぎ祭」は、白の晒木綿に「池上宮(いけのうえぐう)みそぎまつり」と赤く右横書きされた鉢巻と厄除(やくよけ)と赤く書かれた白晒木綿の越中褌のみを締めた裸男(はだかおとこ)たちが赤鉢巻に赤の水褌(すいこん)のみを締めた神男(しんおとこ)を中心に渦を形成しながら練り歩き、葛懸神社のそばを流れる長良川で垢離(こり)を取る。午後3時、7時、10時の三回にわたって行われ、今年は延べ約400人が参加した。 |
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元気よく長良川に入る子供たち |
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▲▼ 裸男たちのみそぎ褌は、白晒木綿の越中褌で、前垂れに注連縄(しめなわ)の絵と「厄除(やくよけ)」の文字が赤く染め抜かれている。鉢巻と共に参加者には無償で配られるので、全員、統一した衣装で禊が行える。拝観者への販売は行われていない。 |
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ながらがわ みそぎまつりの しわすかな |
Nagara River,
December
for the purification ritual.
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第一回と第三回のみそぎには、池ノ上の氏子が正禰宜(せいねぎ)として神男(しんおとこ)を務めるが、第二回みそぎには、外部から登用される副禰宜(ふくねぎ)が神男をつとめる。今年は、正禰宜が池ノ上一丁目の氏子・奥村悟さん(会社員
39歳)、副禰宜は遠藤達也さん(公務員 43歳)。子供禰宜がつとめる神男は、氏名は公表されていなかったが、正禰宜の長男がつとめるのが習わしという。 |
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なお、「祢宜」は「禰宜」の略字で、正規には「禰宜」と記す。 |
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宮前で神男の胴上げ |
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▼ 午後7時から第二回の禊が始まった。子供組に続いて大人組も出発。裸男たちは気合いを入れながら公民館を飛び出し、長良川の禊ぎ場を目指した。みそぎの要領は第一回と全く同じ。違うのは、大人組の神男が正禰宜から副禰宜に交代したことくらいである。 |
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元気な裸の子供たち |
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今宵は、暖冬で無風という好条件だが、北アルプスから流れてくる肌を刺す冷水は、さすがに厳しいものがある。 |
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裸男たちの夜の禊 |
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かんごりや きあいでつかる ながらがわ |
Winter purification ceremony, fired up for bathing
in Nagara River. |
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寒さに耐える禊 |
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▼ このあと、裸男たちは、神男を担ぎ上げたまま拝殿に入り、神殿に向かって拝礼した後、控え室に向かった。時刻は午後7時45分ころで、第二回のみそぎは約45分で終了した。 |
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撮影はこれで切り上げたが、午後10時から第三回のみそぎがあった。このときの神男は第一回と同じ正禰宜。 |
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渦の中心を進む神男 |
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翌9日(日)午前零時から本殿で神迎祭(しんげいさい)(お神迎え)が行われ、宮司ら神職、祭典委員長、正禰宜、副禰宜などが列席して所定の神事を行い、神々を迎えた。幣殿から退場した参拝者はオミオクサマ*を食し、空になった土器(かわらけ)を瑞垣(みずがき)などにぶつけて割った。土器を割るのは、武士の出陣と同様、神前で誓った決意をあらわすものであるという。 |
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9日(日)午前10時から本殿で大祭(たいさい)が行われた。一連の神事の後、祭壇に供えられた水槽の鯉(生贄(いけにえ))が長良川に運ばれ、神職と共に当年・前年の正禰宜がみそぎ場で修祓(しゅばつ)のあと、鯉を放った。なお、神迎祭と本祭は、本殿での撮影が禁止されている。 |
*オミオクサマ:御食様 神男が炊いたご飯。神迎祭(お神迎え)の祭壇に供える。 |
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白糸の寒みそぎ |
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熊野神社 |
福岡県前原市 |
平成15年(2003)12月18日(木) |
写真提供:若者の祭 監修:和田義男 |
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福岡県前原(まえばる)市は、福岡市の西隣に位置する。白糸(しらいと)の滝は、前原市南部の背振(せぶり)山地の羽金山(はがねやま
標高900m)の北斜面を流れる長野川の源流にかかる落差24m、幅12mの優雅な滝である。流れる水が白い絹糸のように見えることから、この名がある。 |
前原市の白糸(しろいと)地区にある熊野神社では、毎年年末に氏子たちが白糸の滝の清水が流れる長野川で水垢離をとる「白糸の寒みそぎ」と呼ばれる神事が行われる。 |
この神事は、室町時代に疫病や大火に見舞われ、この地が寂れかけていたため、これを立て直そうと山伏が始めた荒行が起源とされ、現在は住民らによって受け継がれている。 |
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熊野さまを祀る神社は全国で3,273社あるという(神社本庁「祭礼データ」の祭神名検索の結果による)。熊野神社は、主に家津御子神(けつみこのかみ=素盞鳴命)、熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ=伊邪那岐命)、熊野夫須美神(くまのふすみのかみ=伊邪那美命)を祀る。
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ちなみに、熊野三山とは、東牟婁郡本宮町(ひがしむろぐんほんぐうちょう)の熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ
本宮)新宮市の熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ
新宮)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ 那智)の三社の総称である。 |
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熊野神社の「寒みそぎ」は、五穀豊穣などを祈願する神事であるが、奇祭として知られる。この裸祭りは、既に400年も前から続いている伝統行事で、前原市の冬の風物詩となっている。
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12月18日午前0時、一番太鼓を合図に褌一丁になった男たちが神社境内に集合し、二番太鼓でお祓いとお神酒で無事に行事が終わるように祈る。三番太鼓を合図に、提灯と松明を持った男を先頭に、新米の奉納米が入った桶(おけ)を担いだ未婚の年男3人があとに続く。 |
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かんみそぎ ふどしにだんを たくするに |
Cold water purification, getting warm by the loincloth. |
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▲▼ 総勢約100人が約200mをひた走り、長野川に設けられた「みそぎ場」に入る。年男たちが奉納米を研ぐ間、氏子たちは滝から流れ落ちてきた身を切るように冷たい清水で身を清める。「オイサ、オイサ」と掛け声をかけながら激しく水をかけ合う姿は圧巻である。気温4度、水温6度のなか、腰まで水に浸かりながら、氏子たちの輪が広がる。みそぎ場は、長野川をせき止めてつくったもの。上手の石段で、3人の年男が清水で米を研いでいる。 |
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氏子たちの衣装は、白晒の越中褌に地下足袋か裸足である。白タオルを後ろ鉢巻に締めている人もいる。褌は各自が用意するようで、まちまちの寸法だ。子供たちも大人の締める越中褌をしており、大きすぎてもてあまし気味のようだ。 |
奉納米を七回研いで七回濯ぐ約15分間、裸の男たちは「オイサ、オイサ」と大きな掛け声を出しながら、肩を組んで円陣を作ったり、互いに激しく水を掛け合う。 |
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▲ 寒さを紛らすためか、次第に激しい揉み合いが始まる。中には勢い余って転ぶ男もいる。激しい運動と水の抵抗で褌が乱れているが、男たちは気にもとめない様子だ。越中褌は激しい揉み合いには不向きだが、神社の禊ぎ用の伝統衣装として定着している以上、六尺褌には替えられないのだろう。 |
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▲▼ 米が研ぎ終わると、提灯を先頭に引きあげる。お神酒の升酒を飲んで冷え切った身体を内部から暖め、焚き火で暖をとる。 |
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みそぎ場の上手で研がれた米は、境内で竹を薪にした露天釜で炊かれた後、高く細く積み上げて神社の祭神に供えられ、その傾きにより翌年の豊凶を占うという。
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刃物を使うと栄養が落ちるという山伏の言い伝えから、包丁を使わずに手でちぎったコンニャクの混ぜご飯でつくった特大のおにぎりが自慢で、寒みそぎが終わったあと、刃物を入れない長いままのタクアンと青菜漬けとともに参詣者にふるまわれる。行事が終るのは4時近く、帰路につくころには冬の夜がしらじらと明ける。 |
厳寒の中、神職や住職、それに信者が褌一丁で厳かに水垢離をとる光景は良く目にする。しかし、熊野神社では、以前は敬虔な氏子たちが凍るような白糸の滝の清水で厳粛に水垢離をとっていたに違いない神事も、いつしか寒さを紛らすために肩を組み、水を掛け合い、揉み合うという、いわばお祭り騒ぎになってしまったようだ。 |
そうでもしないと、このような地味な神事は長続きせず、やがて氏子たちから敬遠され、廃れてしまうだろう。白糸の寒みそぎに若者の参加が多いことは、現代においてもこの神事が地元の人々に受け入れられている証であり、頼もしく思う。これからも大いに気勢をあげて1年の汚れを落とし、清々しい気持ちで新年を迎えていただきたい。 |
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渦の中心を進む神男 |
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冬至水行祭 |
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日蓮宗玉蓮山真成寺 |
富山県魚津市 |
平成25年(2013)12月22日(日) |
撮影・制作:和田義男 |
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平成25年(2013)12月22日(日)、富山県魚津市(うおづし)日蓮宗玉蓮山(ぎょくれんざん)真成寺(しんじょうじ)(谷川寛俊たにかわかんしゅん住職/戒名:日徳
65歳)で、荒行僧の指導により、県内外から集まった約80人の檀信徒など一般参加者が頭から冷水を浴びる第六回冬至水行祭(とうじすいぎょうさい)が開催された。 |
今年で6回目となる冬至水行祭は、厳寒の冬至に昼と夜の二回に分かれ、一般参加者約80名の老若男女が女性は白衣、男性は褌一丁の裸形となり、本堂前の境内に置かれた二つの仮設水槽で、日蓮宗の作法に則り、水行肝文(すいぎょうかんもん)を唱えながら手桶で頭から冷水を被る水行を行った。 |
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【編集子が選ぶ名作】
名作アニメーション |
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拡大写真(2400X1750)567KB/六角水槽の水行 |
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びゃっこんの とうじすいぎょう きあいかな |
Fired up
for winter solstice ablution wearing white fundoshi loincloth. |
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拡大写真(2600x1950)1.06MB
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日蓮宗の水行は、長勝寺寒の荒行
に解説した如く、荒行僧が千葉県市川市にある日蓮宗大荒行堂での過酷な100日の荒行を無事に終えた成満(じょうまん)記念に行うものだが、真成寺は、その水行を水行祭として初めて一般人に開放した。 |
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拡大写真(2600x1950)822KB
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真成寺の水行は、谷川寛敬(たにかわかんきょう)副住職が平成13年(2001)の冬至の日に日蓮宗大荒行堂で初めての100日荒行(初行)を無事に終えた成満(じょうまん)記念に行ったのがはじまり。平成20年(2008)から檀信徒など一般参加者を募集し、冬至水行祭を行うようになった。 |
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拡大写真(2400X1750)567KB |
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