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十月の裸褌祭 ★☆★彡
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神輿一体走り |
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勝岡八幡神社 |
愛媛県松山市勝岡町 |
平成16年(2004)10月7日(水) |
撮影・原作:ちばあきお 監修:和田義男 |
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平成16年(2004)10月7日(水)、愛媛県松山市勝岡町に鎮座する勝岡八幡神社で「一体走り(いったいばしり)」が開催された。 |
一体走りは、勝岡八幡神社が朝廷から宮号と菊花の紋章を下賜(かし)された際、当時、勝岡の特産品であった塩を朝廷に献上した。以来、勝岡の塩は珍重され、和気浜(わけはま)の裸の若者たちが塩を担いで御用船(ごようせん)まで運んだことから、神事として伝承されてきたものであるという。 |
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さやけしや はだかのけんじ しっそうす |
The refreshing air, the naked young men dashing. |
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▲▼ 一体走りは、お旅所から東に向かって一直線の参道を駆け抜ける。距離は120mほどあり、現在はアスファルトの舗装道路で、ゴールは神社と反対方向の石灯籠のある勝岡橋付近である。 |
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午前7時45分過ぎから一体走りが始まった。最初に黄色の布(御絹)で覆われた神輿を担いだ安城寺の裸の青年たちが裸足で走ってきた。御絹と同じ黄色の後ろ鉢巻に、黄色の帯を白い越中褌の上に兵児帯のように締めている。越中褌の代わりに六尺褌を締めたグループもある。褌であれば種類や色は問わないようだ。 |
神輿は、左右の揺れも見せず、上下の動揺もなく、一直線に滑るように走ることが賞賛される。どのチームも観衆の盛大な拍手を受けながら、きれいなフォームで鈴を鳴らさないように、あっという間に駆け抜けて行った。 |
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ゴール後神輿を練り上げる若者たち |
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安城寺川狩り |
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久万川・川狩り場 |
愛媛県松山市安城寺 |
平成16年(2004)10月7日(水) |
撮影:ちばあきお 監修:和田義男 |
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松山市安城寺で行われる川狩りは、勝岡八幡神社秋季例祭当日の宮入り前に、神輿青年頭取や一体走りの青年たちが褌姿になり、神輿を久万川に担ぎ入れて、流水で祓い清める行事で、勝岡八幡神社の旧神主(かんぬし)柳原家の伝承に由来するものだという。 |
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昔、安城寺にあった柳原神主家の屋敷一隅の小社に金無垢の御神体が祀られていた。ある年この御神体を勝岡八幡神社に合祀することになり、神遷(しんせん)*しようとしたところ、神社石段下までは事無く進んだが、それより上へは一歩も進み得ず、幾度か試みた挙げ句、神輿を洗い清めて出直すことを思い立ち、川狩りして出直したところ、今度は不思議にも御神体がやすやすと石段を上がることができたという。 |
以来、昭和42年(1967)までは久万川でこの行事が行われていたが、川の汚染のため中断されていた。平成12年(2000)10月、地元の粘り強い要望が実を結び、「愛媛県のふるさとの川づくり事業」による施設が竣工し、伝統行事である「川狩り」が33年ぶりに復活した。現在は、一体走りが終わった日の夕方に行われている。 |
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神遷(しんせん):御神体を神輿で遷すこと。 |
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かわがりや ふんどししゅうの ほおかむり |
Kawagari festival, the naked guys
of fundoshi loincloth
cover their heads and cheeks
with a hand towel. |
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播州秋祭/浜の宮天満宮 |
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浜の宮天満宮 |
兵庫県姫路市 |
平成13年(2001)10月8日(月) |
撮影・制作:和田義男 |
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裸祭りの嚆矢 |
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平成13年(2001)10月8日(月)の休日、家内と二人で兵庫県姫路市飾磨区須加に鎮座する浜の宮天満宮で開かれた秋季例大祭の宵宮に行った。平成13年(2001)10月20日に発表したこの作品は、裸祭りにカメラを向けた嚆矢(こうし)であり、そのロマンと感動に触発されて、以後、取材を重ね、日本一の裸祭りシリーズへと発展した。その記念として、10月15日(月)に取材した「灘のけんか祭り」と共に、筆者の顔写真を埋め込んでいる。 |
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兵庫県南西部、播磨灘に臨む肥沃な平野は、播州平野と呼ばれる。その中心部に位置する姫路市の海岸一帯では、10月の祭り月になると、祭り一色で盛り上がる。1年をこの日のために暮らしていると思われるほど、人々は血湧き肉踊る秋祭りに熱中する。「祭一色播州の秋」というポスターが沿線の駅構内に張られている。姫路市内だけでも約30の神社で秋祭りが執り行われ、10月は祭りで明け暮れる。 |
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ふんどしを しめてもえたつ あきまつり |
A loincloth brings you energy for the autumn festival. |
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▲▼ 播州の秋祭りでは、男たちは上気した赤い肌にふんどしをキリリと締め込み、鉢巻を締め、地下足袋を履き、練り子(ねりこ)や乗り子(のりこ)、シデ方(しでかた)として祭りに臨む。粋な腕守りが揺れる。地元の女性は、そうした男性のいでたちがたまらなく魅力的だという。 |
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肩車した親子のふんどし姿は、実に微笑ましい。播州では、未だに日本古来の裸文化が息づいている。日本の高温多湿の気候風土には、裸祭りがよく似合う。若者は、盆暮れには帰ってこなくても、秋祭りには必ず帰ってくる。祭りが平日にかかると、地元の市役所は閑散となる。職員が休みを取り、祭りに参加するからである。 |
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あきまつり ゆらぐやたいに ちごふたり |
Two children on a wagon, swaying up and down in an autumn festival. |
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▲▼ 浜の宮天満宮の秋祭りは、赤、黄、青、桃色、柿色といったカラフルなシデを先端につけたシデ棒を持つシデ方に守られながら、頭巾をかぶり豪華な襦袢を着て太鼓を叩く乗り子を乗せた屋台を練り子が担き、「ヨーイヤサー」の掛け声も勇ましく練り歩く。男性は全員白のふんどしを締め込んでいる。シデ棒は、魔よけの他に屋台を支えたり、景気付けや合図など多彩な働きをする。シデの紙は町の色を用いるため、シデと練り子の鉢巻でどこの町の屋台かわかるようになっている。 |
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浜の宮天満宮では、須加(すか)、宮(みや)、天神(てんじん)の3地区から大屋台が、大浜(おおはま)、川内細江(かわちほそえ)、西細江(にしほそえ)、中細江(なかほそえ)、港(みなと)、南細江(みなみほそえ)の6地区から小屋台が繰り出す。大屋台は、乗り子4人を乗せ、重さ2tonほどもある屋台を練り子50〜60人で担ぐ。小屋台は乗り子2人を乗せ、1tonを超える屋台を練り子30〜40人で担ぐ。各屋台は午前11時頃から順番に宮入りし、拝殿前で屋台練りを披露し、拝殿を一周する。各屋台が宮入りを果たすと、境内は身動きできないほど群衆で一杯となる。 |
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ばんしゅうの おとこはふどし あきまつり |
Men
of Bansyu each wearing
a loincloth for autumn festivals. |
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古武士のような指揮者
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▲▼ 播州の祭り屋台は、大きく分けて漆塗りの屋根に錺(かざり)金具を装飾した「神輿屋根型屋台」と、布団を重ねた屋根の「布団屋台」に大別される。浜の宮天満宮の屋台は、播州の各地で多く見られる神輿屋根型屋台である。しかし、細かく見ると、泥台(どろだい)が広く、伊達綱(だてづな)の根元を弦の綱に巻くなど他地区では見られない造りになっている。この地域では屋台を「ヤッサ」と呼ぶが、姫路市の南西部に位置する網干(あぼし)方面では「ヤッタイ」と呼ぶようである。 |
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▲▼ 練り子たちは、肩当てもせず、練り棒の内側の本棒や外側の脇棒を直接肩に当てて屋台を担いでいる。法被を羽織ったまま担いでいる練り子も見られるが、中細江などは、全員法被を脱ぎ捨て、ふんどし一丁で担いでいる。指揮者の美学の違いが感じ取れるところである。 |
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重さ2トンといわれる大屋台ともなると、ズッシリと重く、肩に食い込む。男たちのむき出しの肩はみるみる赤くなり、思わず顔が歪む。翌日には肩が腫れ上がるのだという。 |
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坂越の船祭り |
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大避神社 |
兵庫県赤穂市 |
平成16年(2004)10月10日(日) |
撮影・原作:ちばあきお 監修:和田義男 |
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平成16年(2004)10月10日(日)、兵庫県赤穂市坂越(あこうし・さこし)に鎮座する大避(おおさけ)神社で船渡御祭が開催された。赤穂市を流れる千種川(ちくさがわ)の東、坂越湾に向かって建つ大避神社は、JR播州赤穂駅から東方4
kmに鎮座する。 |
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大避神社船渡御祭は、「坂越の船祭り」と呼ばれ、今から300年ほど前の江戸時代、坂越が繁栄を極めた時期に始まったといわれる。「坂越の船祭り」は平成4年(1992)国の無形民俗文化財に選定され、使用する船も兵庫県有形民族文化財に指定されている。 |
生島(いきしま)は坂越の沖合100mほどに浮かぶ周囲わずか1.6kmの小島で、古来より大避神社の神地として人の入ることが禁じられていたため、樹相が原始のままの状態を保っており、国の天然記念物に指定されている。 |
生島には大避神社の御旅所と樹林の奥に祭神・奏河勝の墓と伝えられる円墳があり、本祭の前日には墓参が行われる。生島の名は秦河勝が生きてこの地に着いたので名づけられたと伝えられる。船渡御祭は、この御旅所への船による神幸祭である。 |
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てんたかし さこしのうらの かいでんま |
The sky is high, large paddle boats
at Sakoshi beach. |
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▲▼ 若衆組が乗り組む2隻の和船は、この地に伝わる櫂伝馬と呼ばれる伝馬船(てんません)である。「かいでんま」又は「かいてんま」といい、片舷6本づつ、両舷12本の櫂(かい)を取り付けた手漕ぎ船である。 |
2隻の伝馬船は、常に併走しながら生島周辺や坂越湾を巡り、何度も何度も漕走競争に興じた。赤い法被姿が白砂青松の背景に映えて美しい。遠くから見ると赤く華やかな伝馬船は、子供たちの夢を乗せているようだ。 |
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▼ やがて若衆組は赤い法被を脱ぎ捨て、漕ぎ手全員が褌一丁の裸形になり、赤い伝馬が裸の伝馬に変わった。 |
神の鎮座する神輿に近づくには裸詣り同様、裸形でなくてはならず、船を浜に乗り付けてからでは遅いので、あらかじめ裸になって準備していたのである。 |
黄色の鉢巻をきりりと締めた二番船の裸の漕ぎ手たちが近くに見えてきた。朝から太陽の下で一日中漕いでいたので、身体には日焼けのあとがクッキリとつき、赤く晴れ上がっている人もいて、精悍さが増していた。 |
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▼ 裸の男たちは、坂越の浜に上陸すると、渡御組や大勢の観客に囲まれた砂浜で、アトラクションをはじめた。 |
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▼ 裸の若衆たちにより7枚のバタ板が海水で浄められたあと、午後3時45分、祭神・秦河勝(はたの・かわかつ) の御霊を乗せた神輿が無事にバタ板を渡り、御神輿船に移され、海上渡御が始まった。 |
バタ板を掛ける役割を終えた櫂伝馬の褌一丁の男たちは、赤い法被を羽織って配置に付き、赤の伝馬が一番船、黄色の伝馬が二番船として船団の先頭に立ち、生島御旅所まで渡御船団を曳航した。 |
渡御船団は、一番・二番が櫂伝馬、三番が獅子船、四番から八番までが頭人船、九番が楽船、十番が御神輿船、十一番が警護船、十二番が歌船となる。今年は警護船が見あたらず、全部で11隻の船団となった。 |
櫂伝馬に曳航される船渡御の櫓櫂船(ろかいぶね)が一直線に並んだ。御神輿船の前に9隻の船が先導している。楽船には「国家太平 雅音成就」の大幟が見える。雅な音曲で国家太平を実現したいとの願いなのだろう。 |
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あきのくれ でんまひきゆく とぎょせんだん |
The evening late in autumn, rowboats towing
the convoy carrying a portable shrine. |
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▼ 坂越から目と鼻の先にある生島には、大避神社の御旅所があり、大きな幟が立つ。渡御船団は、この砂浜に船を着けて上陸する。神域として人跡未踏地だった生島は、昔ながらの佇まいを今に伝える。 |
櫂伝馬の男たちは、上陸に先立ち、例によって法被を脱いで裸となった。神輿の上陸に備え、御神輿船を引き寄せ、砂浜に平行に固定したあと、7枚のバタ板を掛けた。今度は悪ふざけもなく、作業は淡々と進められた。 |
櫂伝馬の男たちは、御神輿船にバタ板を掛け終わると、海上に退避した。男たちは既に赤い法被を着込んでいる。猿田彦と二頭の獅子に続いて、神輿が生島に上陸し、頭人の付き人たちに見守られながら御旅所入っていった。中では着御祭が執り行われる。人の動きが途絶えると、生島御旅所は、深い夕闇に包まれていった。 |
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あきのうみ しまのおたびしょ くれゆきぬ |
Autumn sea, the lodging shrine on the island
darkening. |
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櫛来社のケベス祭 |
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櫛来社 |
大分県国東市国見町 |
平成19年(2007)10月14日(日) |
撮影・原作:清 原浩 監修:和田義男 |
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平成19年(2007)10月14日(日)、瀬戸内海の西部・周防灘(すおうなだ)に面する大分県国東市(くにさきし)国見町(くにみちょう)に鎮座する神社「櫛来社(くしくしゃ)」で炎の祭典・ケベス祭が行われた。 |
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国東(くにさき)半島の北部に位置する国見町は、北に瀬戸内海の周防灘を望み、南の国東半島最高峰・両子山(ふたごやま/ふたごさん)(720.6m)を扇の要(かなめ)として広がる大自然と温暖な気候に恵まれた風光明媚な地である。古くは大和から九州へ通じる海上交通の要衝(ようしょう)として、また、中世には六郷満山(ろくごうまんざん)の仏教文化の栄華を誇った町として知られる。港の沖合には、姫島(ひめしま)が浮かぶ。 |
国見町櫛来字大谷に鎮座する櫛来社は、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(仲哀天皇の妃・神功皇后)など6柱の大神を祀る神社で、約1,100年の歴史を有する。明治4年(1871)に現在の呼び名となったが、以前は、磐坐社・岩倉八幡・岩倉社と呼ばれていたという。現在の氏子戸数は10区200余戸。 |
国見町の代表的な祭りが毎年10月14日に櫛来社(くしくしゃ)(旧・岩倉社)で行われるケベス祭(けべすまつり/けべすさい)である。起源や由来は一切不明で、謎のベールに包まれた祭りであるが、火の粉の舞う荒々しい奇祭として知られ、平成12年(2000)12月25日に国の選択無形民俗文化財に指定されている。 |
境内に積み上げられたシダの柴木の山に点火し、燃え盛る浄火を守る白装束の「トウバ」たちと、そこに突入しようとする奇怪な面を着けた「ケベス」が争う。ケベスは何度も突入を試み、ついに成功して棒でシダの山をかき回し火の粉を散らすと、その後はトウバも火のついたシダを持って境内を走り回り、参拝者を追い回す。このときに火の粉を浴びると厄が払われ、無病息災になるといわれる。 |
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うらまつり ぜんらであびる よいのしお |
Beach ritual, nude bathing
in the evening tide. |
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▲ トウバとケベスをつとめる白装束をまとった氏子たちは、日が暮れるのを待ち、午後6時になると、浜に降りて全裸となり、周防灘に入浴して「潮かき」と呼ばれる禊(みそぎ)を行った。 |
全国を見渡すと、現在の禊は、褌をしたままで行うことが主流となっているが、ここでは昔ながらの伝統が維持されている。現在でも銭湯では全裸で入浴する習慣がある日本では、古き良き時代においては、全裸禊は当たり前に行われていた。 |
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祭のはじまり |
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▲▼ ケベス祭は、火祭りであることから、火にまつわる厳格な決めごとがある。祭りが行われている6日から14日迄、ケベスとトウバ役の男たちは、一切、火と交わることが禁止される。煙草を吸うことも許されないし、お茶を煎れても駄目。火を加えた食べ物も口にできないというから徹底している。 |
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更に、一週間前からは他人の触れたものは口にせず、トウバたちによる自給自足の生活に入る。また、女人禁制となり、女性に触れることも許されない。前浜の全裸禊はその仕上げとなるもので、厳しい掟が守られてきた。 |
宮司は、神事の最後に、ケベスドンにケベス面をつけ、背中をドンと一突きしたときからケベスが乗り移り、ケベスが生まれる。ケベス面は、得体の知れない奇妙な面で、とても神秘的である。ケベスは、白頭巾に、荒縄で襷がけをした白装束をまとい、白の地下足袋を履き、扇子と棒を手にして現れた。 |
境内ではトウバたちが十数人、うずたかく積み上げたシダの柴木を焚き上げて待ち構えており、ケベスとトウバとが戦いを始めた。棒術による独特の足さばきが見ものだという。ケベスは、火の中へ突入しようとし、それを阻止するトウバとの攻防戦が繰り返され、最後にはケベスが棒を火に突っ込み、火の粉を散らすことになるが、それまでは次々とトウバが入れ替わり、ケベスと棒術の戦いが続けられる。 |
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あきのよい けべすとうばの せめぎあい |
Autumnal evening, fighting
between Kebes and Tobas. |
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ケベスとトウバのせめぎ合い |
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社殿に入るトウバたち |
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▼ いよいよトウバたちが火のついた生のシダを棒で持ち上げ、境内を徘徊しはじめ、ケベス祭は佳境に入った。櫛来社の境内は、生シダの燃える炎と白煙が充満し、視界が狭まり、炎の祭典は一気に盛り上がりをみせた。 |
トウバ衆は社殿になだれ込み、厄払いをすべく参拝者を追いかけ始め、社殿のあちこちで悲鳴が上がった。社殿の中で、トウバ衆は火のついたシダの柴木を振り回し、逃げ惑う参拝者の頭上に容赦なく浄火の火の粉を浴びせかける。服に焼き焦げができるのは必至で、タオルやショールで衣服を守る人も見られた。午後8時半ころまで続けられた炎の祭典は、喧噪のうちに幕を閉じた。 |
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とうばしゅの じょうかをあびる むらまつり |
The village ritual, bathing holy fires
scattered by Tobas. |
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激しい火の粉の洗礼! |
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灘のけんか祭り |
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松原八幡神社 |
兵庫県姫路市 |
平成13年(2001)10月15日(月) |
撮影:制作:和田義男 |
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「ヨーイヤサー」の勇ましいかけ声と太鼓の音が抜けるような秋晴れの空に吸い込まれていく。上気した赤い肌に白い祭りまわしをキリリと締め込んだ男たち。神輿がぶつかり屋台が揺れる。21世紀最初の平成13年(2001)10月15日(月)、兵庫県姫路市において、「灘のけんか祭り」と呼ばれる松原八幡神社秋季例祭の本宮が開かれ、15万人の大観衆が裸の男たちの熱い祭典を見守った。 |
★☆★彡 |
灘祭りとも呼ばれる灘のけんか祭りは、神輿を荒々しくぶつけ合う特異な神事のため、天下の奇祭だとか、全国の数あるけんか祭りの中で最大規模の祭りだといわれ、戦前から播州播磨を代表する祭りとして知られてきた。 |
応仁元年(1467)から始まった応仁の乱で松原八幡神社が焼失した際、領主・赤松正則は、社殿の再建に尽力し、その竣工祭に米200俵を寄進した。喜んだ氏子たちが木組みに米俵を積み上げて御旅山へ担ぎ上げたのが祭りの始まりだといわれている。 |
松原八幡神社の秋祭りは、神輿同士がお互いに激しくぶつけ合う「神輿合わせ」で全国的に有名となった。そのさまが喧嘩をしているように見えることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになった。 |
激しく神輿をぶつけ合うのは、神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓出兵の際、風待ちのために白浜の沖で停泊していた軍船が、波に揺られてぶつかり合う様子を表したものだという。また、これらの軍船に付着したゴイナ(牡蠣 かき)を削ぎ落とそうとする様子を表したものだともいわれている。いずれにせよ、神と人とが一体となり、五穀豊穣を願って行われる極めて特異な神事である。 |
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阪神三宮駅から姫路行きの直通特急に乗車すると、1時間ほどで山陽電鉄・白浜の宮駅に着く。祭りの日だけは(1000頃〜1700頃)特急が臨時停車する。駅の直ぐ南に松原八幡神社がある。その西方に約1kmほど歩くと、御旅山(おたびやま)山麓にある広畑(広畠 ひろばたけ)と呼ばれる練り場(ねりば)に着く。
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「灘のけんか祭り」に参加する町は旧灘七村である。現在の地名でいえば、姫路市南東部海岸地域のうち東山(ひがしやま)(旧東山村)、八家(やか)(旧八家村)、木場(きば)(旧木場村)、白浜町(旧宇佐崎(うさざき)村・旧中村(なかむら)・旧松原(まつばら)村)及び飾磨区妻鹿(めが)(旧妻鹿村)を合わせた地域で、一般に灘地域とか灘地区などと呼ばれる。
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