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十月の裸褌祭 ★☆★彡
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神輿一体走り |
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勝岡八幡神社 |
愛媛県松山市勝岡町 |
平成16年(2004)10月7日(水) |
撮影・原作:ちばあきお 監修:和田義男 |
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平成16年(2004)10月7日(水)、愛媛県松山市勝岡町に鎮座する勝岡八幡神社で「一体走り(いったいばしり)」が開催された。 |
一体走りは、勝岡八幡神社が朝廷から宮号と菊花の紋章を下賜(かし)された際、当時、勝岡の特産品であった塩を朝廷に献上した。以来、勝岡の塩は珍重され、和気浜(わけはま)の裸の若者たちが塩を担いで御用船(ごようせん)まで運んだことから、神事として伝承されてきたものであるという。 |
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さやけしや はだかのけんじ しっそうす |
The refreshing air, the naked young men dashing. |
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▲▼ 一体走りは、お旅所から東に向かって一直線の参道を駆け抜ける。距離は120mほどあり、現在はアスファルトの舗装道路で、ゴールは神社と反対方向の石灯籠のある勝岡橋付近である。 |
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午前7時45分過ぎから一体走りが始まった。最初に黄色の布(御絹)で覆われた神輿を担いだ安城寺の裸の青年たちが裸足で走ってきた。御絹と同じ黄色の後ろ鉢巻に、黄色の帯を白い越中褌の上に兵児帯のように締めている。越中褌の代わりに六尺褌を締めたグループもある。褌であれば種類や色は問わないようだ。 |
神輿は、左右の揺れも見せず、上下の動揺もなく、一直線に滑るように走ることが賞賛される。どのチームも観衆の盛大な拍手を受けながら、きれいなフォームで鈴を鳴らさないように、あっという間に駆け抜けて行った。 |
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ゴール後神輿を練り上げる若者たち |
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安城寺川狩り |
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久万川・川狩り場 |
愛媛県松山市安城寺 |
平成16年(2004)10月7日(水) |
撮影:ちばあきお 監修:和田義男 |
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松山市安城寺で行われる川狩りは、勝岡八幡神社秋季例祭当日の宮入り前に、神輿青年頭取や一体走りの青年たちが褌姿になり、神輿を久万川に担ぎ入れて、流水で祓い清める行事で、勝岡八幡神社の旧神主(かんぬし)柳原家の伝承に由来するものだという。 |
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昔、安城寺にあった柳原神主家の屋敷一隅の小社に金無垢の御神体が祀られていた。ある年この御神体を勝岡八幡神社に合祀することになり、神遷(しんせん)*しようとしたところ、神社石段下までは事無く進んだが、それより上へは一歩も進み得ず、幾度か試みた挙げ句、神輿を洗い清めて出直すことを思い立ち、川狩りして出直したところ、今度は不思議にも御神体がやすやすと石段を上がることができたという。 |
以来、昭和42年(1967)までは久万川でこの行事が行われていたが、川の汚染のため中断されていた。平成12年(2000)10月、地元の粘り強い要望が実を結び、「愛媛県のふるさとの川づくり事業」による施設が竣工し、伝統行事である「川狩り」が33年ぶりに復活した。現在は、一体走りが終わった日の夕方に行われている。 |
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神遷(しんせん):御神体を神輿で遷すこと。 |
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かわがりや ふんどししゅうの ほおかむり |
Kawagari festival, the naked guys
of fundoshi loincloth
cover their heads and cheeks
with a hand towel. |
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播州秋祭/浜の宮天満宮 |
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浜の宮天満宮 |
兵庫県姫路市 |
平成13年(2001)10月8日(月) |
撮影・制作:和田義男 |
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裸祭りの嚆矢 |
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平成13年(2001)10月8日(月)の休日、家内と二人で兵庫県姫路市飾磨区須加に鎮座する浜の宮天満宮で開かれた秋季例大祭の宵宮に行った。平成13年(2001)10月20日に発表したこの作品は、裸祭りにカメラを向けた嚆矢(こうし)であり、そのロマンと感動に触発されて、以後、取材を重ね、日本一の裸祭りシリーズへと発展した。その記念として、10月15日(月)に取材した「灘のけんか祭り」と共に、筆者の顔写真を埋め込んでいる。 |
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兵庫県南西部、播磨灘に臨む肥沃な平野は、播州平野と呼ばれる。その中心部に位置する姫路市の海岸一帯では、10月の祭り月になると、祭り一色で盛り上がる。1年をこの日のために暮らしていると思われるほど、人々は血湧き肉踊る秋祭りに熱中する。「祭一色播州の秋」というポスターが沿線の駅構内に張られている。姫路市内だけでも約30の神社で秋祭りが執り行われ、10月は祭りで明け暮れる。 |
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ふんどしを しめてもえたつ あきまつり |
A loincloth brings you energy for the autumn festival. |
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▲▼ 播州の秋祭りでは、男たちは上気した赤い肌にふんどしをキリリと締め込み、鉢巻を締め、地下足袋を履き、練り子(ねりこ)や乗り子(のりこ)、シデ方(しでかた)として祭りに臨む。粋な腕守りが揺れる。地元の女性は、そうした男性のいでたちがたまらなく魅力的だという。 |
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肩車した親子のふんどし姿は、実に微笑ましい。播州では、未だに日本古来の裸文化が息づいている。日本の高温多湿の気候風土には、裸祭りがよく似合う。若者は、盆暮れには帰ってこなくても、秋祭りには必ず帰ってくる。祭りが平日にかかると、地元の市役所は閑散となる。職員が休みを取り、祭りに参加するからである。 |
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あきまつり ゆらぐやたいに ちごふたり |
Two children on a wagon, swaying up and down in an autumn festival. |
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▲▼ 浜の宮天満宮の秋祭りは、赤、黄、青、桃色、柿色といったカラフルなシデを先端につけたシデ棒を持つシデ方に守られながら、頭巾をかぶり豪華な襦袢を着て太鼓を叩く乗り子を乗せた屋台を練り子が担き、「ヨーイヤサー」の掛け声も勇ましく練り歩く。男性は全員白のふんどしを締め込んでいる。シデ棒は、魔よけの他に屋台を支えたり、景気付けや合図など多彩な働きをする。シデの紙は町の色を用いるため、シデと練り子の鉢巻でどこの町の屋台かわかるようになっている。 |
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浜の宮天満宮では、須加(すか)、宮(みや)、天神(てんじん)の3地区から大屋台が、大浜(おおはま)、川内細江(かわちほそえ)、西細江(にしほそえ)、中細江(なかほそえ)、港(みなと)、南細江(みなみほそえ)の6地区から小屋台が繰り出す。大屋台は、乗り子4人を乗せ、重さ2tonほどもある屋台を練り子50〜60人で担ぐ。小屋台は乗り子2人を乗せ、1tonを超える屋台を練り子30〜40人で担ぐ。各屋台は午前11時頃から順番に宮入りし、拝殿前で屋台練りを披露し、拝殿を一周する。各屋台が宮入りを果たすと、境内は身動きできないほど群衆で一杯となる。 |
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ばんしゅうの おとこはふどし あきまつり |
Men
of Bansyu each wearing
a loincloth for autumn festivals. |
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古武士のような指揮者
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▲▼ 播州の祭り屋台は、大きく分けて漆塗りの屋根に錺(かざり)金具を装飾した「神輿屋根型屋台」と、布団を重ねた屋根の「布団屋台」に大別される。浜の宮天満宮の屋台は、播州の各地で多く見られる神輿屋根型屋台である。しかし、細かく見ると、泥台(どろだい)が広く、伊達綱(だてづな)の根元を弦の綱に巻くなど他地区では見られない造りになっている。この地域では屋台を「ヤッサ」と呼ぶが、姫路市の南西部に位置する網干(あぼし)方面では「ヤッタイ」と呼ぶようである。 |
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▲▼ 練り子たちは、肩当てもせず、練り棒の内側の本棒や外側の脇棒を直接肩に当てて屋台を担いでいる。法被を羽織ったまま担いでいる練り子も見られるが、中細江などは、全員法被を脱ぎ捨て、ふんどし一丁で担いでいる。指揮者の美学の違いが感じ取れるところである。 |
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重さ2トンといわれる大屋台ともなると、ズッシリと重く、肩に食い込む。男たちのむき出しの肩はみるみる赤くなり、思わず顔が歪む。翌日には肩が腫れ上がるのだという。 |
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坂越の船祭り |
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大避神社 |
兵庫県赤穂市 |
平成16年(2004)10月10日(日) |
撮影・原作:ちばあきお 監修:和田義男 |
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平成16年(2004)10月10日(日)、兵庫県赤穂市坂越(あこうし・さこし)に鎮座する大避(おおさけ)神社で船渡御祭が開催された。赤穂市を流れる千種川(ちくさがわ)の東、坂越湾に向かって建つ大避神社は、JR播州赤穂駅から東方4
kmに鎮座する。 |
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大避神社船渡御祭は、「坂越の船祭り」と呼ばれ、今から300年ほど前の江戸時代、坂越が繁栄を極めた時期に始まったといわれる。「坂越の船祭り」は平成4年(1992)国の無形民俗文化財に選定され、使用する船も兵庫県有形民族文化財に指定されている。 |
生島(いきしま)は坂越の沖合100mほどに浮かぶ周囲わずか1.6kmの小島で、古来より大避神社の神地として人の入ることが禁じられていたため、樹相が原始のままの状態を保っており、国の天然記念物に指定されている。 |
生島には大避神社の御旅所と樹林の奥に祭神・奏河勝の墓と伝えられる円墳があり、本祭の前日には墓参が行われる。生島の名は秦河勝が生きてこの地に着いたので名づけられたと伝えられる。船渡御祭は、この御旅所への船による神幸祭である。 |
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てんたかし さこしのうらの かいでんま |
The sky is high, large paddle boats
at Sakoshi beach. |
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▲▼ 若衆組が乗り組む2隻の和船は、この地に伝わる櫂伝馬と呼ばれる伝馬船(てんません)である。「かいでんま」又は「かいてんま」といい、片舷6本づつ、両舷12本の櫂(かい)を取り付けた手漕ぎ船である。 |
2隻の伝馬船は、常に併走しながら生島周辺や坂越湾を巡り、何度も何度も漕走競争に興じた。赤い法被姿が白砂青松の背景に映えて美しい。遠くから見ると赤く華やかな伝馬船は、子供たちの夢を乗せているようだ。 |
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▼ やがて若衆組は赤い法被を脱ぎ捨て、漕ぎ手全員が褌一丁の裸形になり、赤い伝馬が裸の伝馬に変わった。 |
神の鎮座する神輿に近づくには裸詣り同様、裸形でなくてはならず、船を浜に乗り付けてからでは遅いので、あらかじめ裸になって準備していたのである。 |
黄色の鉢巻をきりりと締めた二番船の裸の漕ぎ手たちが近くに見えてきた。朝から太陽の下で一日中漕いでいたので、身体には日焼けのあとがクッキリとつき、赤く晴れ上がっている人もいて、精悍さが増していた。 |
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▼ 裸の男たちは、坂越の浜に上陸すると、渡御組や大勢の観客に囲まれた砂浜で、アトラクションをはじめた。 |
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▼ 裸の若衆たちにより7枚のバタ板が海水で浄められたあと、午後3時45分、祭神・秦河勝(はたの・かわかつ) の御霊を乗せた神輿が無事にバタ板を渡り、御神輿船に移され、海上渡御が始まった。 |
バタ板を掛ける役割を終えた櫂伝馬の褌一丁の男たちは、赤い法被を羽織って配置に付き、赤の伝馬が一番船、黄色の伝馬が二番船として船団の先頭に立ち、生島御旅所まで渡御船団を曳航した。 |
渡御船団は、一番・二番が櫂伝馬、三番が獅子船、四番から八番までが頭人船、九番が楽船、十番が御神輿船、十一番が警護船、十二番が歌船となる。今年は警護船が見あたらず、全部で11隻の船団となった。 |
櫂伝馬に曳航される船渡御の櫓櫂船(ろかいぶね)が一直線に並んだ。御神輿船の前に9隻の船が先導している。楽船には「国家太平 雅音成就」の大幟が見える。雅な音曲で国家太平を実現したいとの願いなのだろう。 |
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あきのくれ でんまひきゆく とぎょせんだん |
The evening late in autumn, rowboats towing
the convoy carrying a portable shrine. |
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▼ 坂越から目と鼻の先にある生島には、大避神社の御旅所があり、大きな幟が立つ。渡御船団は、この砂浜に船を着けて上陸する。神域として人跡未踏地だった生島は、昔ながらの佇まいを今に伝える。 |
櫂伝馬の男たちは、上陸に先立ち、例によって法被を脱いで裸となった。神輿の上陸に備え、御神輿船を引き寄せ、砂浜に平行に固定したあと、7枚のバタ板を掛けた。今度は悪ふざけもなく、作業は淡々と進められた。 |
櫂伝馬の男たちは、御神輿船にバタ板を掛け終わると、海上に退避した。男たちは既に赤い法被を着込んでいる。猿田彦と二頭の獅子に続いて、神輿が生島に上陸し、頭人の付き人たちに見守られながら御旅所入っていった。中では着御祭が執り行われる。人の動きが途絶えると、生島御旅所は、深い夕闇に包まれていった。 |
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あきのうみ しまのおたびしょ くれゆきぬ |
Autumn sea, the lodging shrine on the island
darkening. |
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櫛来社のケベス祭 |
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櫛来社 |
大分県国東市国見町 |
平成19年(2007)10月14日(日) |
撮影・原作:清 原浩 監修:和田義男 |
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平成19年(2007)10月14日(日)、瀬戸内海の西部・周防灘(すおうなだ)に面する大分県国東市(くにさきし)国見町(くにみちょう)に鎮座する神社「櫛来社(くしくしゃ)」で炎の祭典・ケベス祭が行われた。 |
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国東(くにさき)半島の北部に位置する国見町は、北に瀬戸内海の周防灘を望み、南の国東半島最高峰・両子山(ふたごやま/ふたごさん)(720.6m)を扇の要(かなめ)として広がる大自然と温暖な気候に恵まれた風光明媚な地である。古くは大和から九州へ通じる海上交通の要衝(ようしょう)として、また、中世には六郷満山(ろくごうまんざん)の仏教文化の栄華を誇った町として知られる。港の沖合には、姫島(ひめしま)が浮かぶ。 |
国見町櫛来字大谷に鎮座する櫛来社は、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(仲哀天皇の妃・神功皇后)など6柱の大神を祀る神社で、約1,100年の歴史を有する。明治4年(1871)に現在の呼び名となったが、以前は、磐坐社・岩倉八幡・岩倉社と呼ばれていたという。現在の氏子戸数は10区200余戸。 |
国見町の代表的な祭りが毎年10月14日に櫛来社(くしくしゃ)(旧・岩倉社)で行われるケベス祭(けべすまつり/けべすさい)である。起源や由来は一切不明で、謎のベールに包まれた祭りであるが、火の粉の舞う荒々しい奇祭として知られ、平成12年(2000)12月25日に国の選択無形民俗文化財に指定されている。 |
境内に積み上げられたシダの柴木の山に点火し、燃え盛る浄火を守る白装束の「トウバ」たちと、そこに突入しようとする奇怪な面を着けた「ケベス」が争う。ケベスは何度も突入を試み、ついに成功して棒でシダの山をかき回し火の粉を散らすと、その後はトウバも火のついたシダを持って境内を走り回り、参拝者を追い回す。このときに火の粉を浴びると厄が払われ、無病息災になるといわれる。 |
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うらまつり ぜんらであびる よいのしお |
Beach ritual, nude bathing
in the evening tide. |
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▲ トウバとケベスをつとめる白装束をまとった氏子たちは、日が暮れるのを待ち、午後6時になると、浜に降りて全裸となり、周防灘に入浴して「潮かき」と呼ばれる禊(みそぎ)を行った。 |
全国を見渡すと、現在の禊は、褌をしたままで行うことが主流となっているが、ここでは昔ながらの伝統が維持されている。現在でも銭湯では全裸で入浴する習慣がある日本では、古き良き時代においては、全裸禊は当たり前に行われていた。 |
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祭のはじまり |
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▲▼ ケベス祭は、火祭りであることから、火にまつわる厳格な決めごとがある。祭りが行われている6日から14日迄、ケベスとトウバ役の男たちは、一切、火と交わることが禁止される。煙草を吸うことも許されないし、お茶を煎れても駄目。火を加えた食べ物も口にできないというから徹底している。 |
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更に、一週間前からは他人の触れたものは口にせず、トウバたちによる自給自足の生活に入る。また、女人禁制となり、女性に触れることも許されない。前浜の全裸禊はその仕上げとなるもので、厳しい掟が守られてきた。 |
宮司は、神事の最後に、ケベスドンにケベス面をつけ、背中をドンと一突きしたときからケベスが乗り移り、ケベスが生まれる。ケベス面は、得体の知れない奇妙な面で、とても神秘的である。ケベスは、白頭巾に、荒縄で襷がけをした白装束をまとい、白の地下足袋を履き、扇子と棒を手にして現れた。 |
境内ではトウバたちが十数人、うずたかく積み上げたシダの柴木を焚き上げて待ち構えており、ケベスとトウバとが戦いを始めた。棒術による独特の足さばきが見ものだという。ケベスは、火の中へ突入しようとし、それを阻止するトウバとの攻防戦が繰り返され、最後にはケベスが棒を火に突っ込み、火の粉を散らすことになるが、それまでは次々とトウバが入れ替わり、ケベスと棒術の戦いが続けられる。 |
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あきのよい けべすとうばの せめぎあい |
Autumnal evening, fighting
between Kebes and Tobas. |
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ケベスとトウバのせめぎ合い |
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社殿に入るトウバたち |
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▼ いよいよトウバたちが火のついた生のシダを棒で持ち上げ、境内を徘徊しはじめ、ケベス祭は佳境に入った。櫛来社の境内は、生シダの燃える炎と白煙が充満し、視界が狭まり、炎の祭典は一気に盛り上がりをみせた。 |
トウバ衆は社殿になだれ込み、厄払いをすべく参拝者を追いかけ始め、社殿のあちこちで悲鳴が上がった。社殿の中で、トウバ衆は火のついたシダの柴木を振り回し、逃げ惑う参拝者の頭上に容赦なく浄火の火の粉を浴びせかける。服に焼き焦げができるのは必至で、タオルやショールで衣服を守る人も見られた。午後8時半ころまで続けられた炎の祭典は、喧噪のうちに幕を閉じた。 |
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とうばしゅの じょうかをあびる むらまつり |
The village ritual, bathing holy fires
scattered by Tobas. |
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激しい火の粉の洗礼! |
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灘のけんか祭り |
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松原八幡神社 |
兵庫県姫路市 |
平成13年(2001)10月15日(月) |
撮影:制作:和田義男 |
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「ヨーイヤサー」の勇ましいかけ声と太鼓の音が抜けるような秋晴れの空に吸い込まれていく。上気した赤い肌に白い祭りまわしをキリリと締め込んだ男たち。神輿がぶつかり屋台が揺れる。21世紀最初の平成13年(2001)10月15日(月)、兵庫県姫路市において、「灘のけんか祭り」と呼ばれる松原八幡神社秋季例祭の本宮が開かれ、15万人の大観衆が裸の男たちの熱い祭典を見守った。 |
★☆★彡 |
灘祭りとも呼ばれる灘のけんか祭りは、神輿を荒々しくぶつけ合う特異な神事のため、天下の奇祭だとか、全国の数あるけんか祭りの中で最大規模の祭りだといわれ、戦前から播州播磨を代表する祭りとして知られてきた。 |
応仁元年(1467)から始まった応仁の乱で松原八幡神社が焼失した際、領主・赤松正則は、社殿の再建に尽力し、その竣工祭に米200俵を寄進した。喜んだ氏子たちが木組みに米俵を積み上げて御旅山へ担ぎ上げたのが祭りの始まりだといわれている。 |
松原八幡神社の秋祭りは、神輿同士がお互いに激しくぶつけ合う「神輿合わせ」で全国的に有名となった。そのさまが喧嘩をしているように見えることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになった。 |
激しく神輿をぶつけ合うのは、神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓出兵の際、風待ちのために白浜の沖で停泊していた軍船が、波に揺られてぶつかり合う様子を表したものだという。また、これらの軍船に付着したゴイナ(牡蠣 かき)を削ぎ落とそうとする様子を表したものだともいわれている。いずれにせよ、神と人とが一体となり、五穀豊穣を願って行われる極めて特異な神事である。 |
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阪神三宮駅から姫路行きの直通特急に乗車すると、1時間ほどで山陽電鉄・白浜の宮駅に着く。祭りの日だけは(1000頃〜1700頃)特急が臨時停車する。駅の直ぐ南に松原八幡神社がある。その西方に約1kmほど歩くと、御旅山(おたびやま)山麓にある広畑(広畠 ひろばたけ)と呼ばれる練り場(ねりば)に着く。
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「灘のけんか祭り」に参加する町は旧灘七村である。現在の地名でいえば、姫路市南東部海岸地域のうち東山(ひがしやま)(旧東山村)、八家(やか)(旧八家村)、木場(きば)(旧木場村)、白浜町(旧宇佐崎(うさざき)村・旧中村(なかむら)・旧松原(まつばら)村)及び飾磨区妻鹿(めが)(旧妻鹿村)を合わせた地域で、一般に灘地域とか灘地区などと呼ばれる。
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▲▼ 灘のけんか祭りだけでなく、播州の秋祭りでは、男はみな白の祭り褌を締めている。相撲まわしと同じような綾織・帆布の締め込みで、地元では泥まわしと呼んでいる。相撲まわしよりも生地が薄くて柔らかい褌の人も見かける。 |
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後日、お便りをいただいた地元の人によると、昔は絹の締め込みだったが、高価なために泥まわしに変わってきたという。その人は、昭和40年(1965)に初めてヤッサ(屋台)を練ったときには、物資に不自由していた時代に父親があつらえて使用していた人絹の褌を受け継いだ。その頃は相撲経験者など少数ではあったがまだ絹の褌をしていたらしい。 |
褌の代わりにネルの腰巻きをしている人たちは、シデ方を務める人たちである。シデ方は、屋台を支える役割で練り子を卒業した年配の人が担当する。シデ方でもその下に褌を締めている人がいるのは、祭り褌にこだわりがあるからだという。 |
褌のほかに地下足袋と鉢巻、そろいの法被が定番の衣装である。腕や褌に腕守り(うでまもり)と呼ばれる細長い布製のお守りを結んでいる人も多い。 |
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▲▼ 神輿や屋台が御旅山の山頂にある御旅所(おたびしょ)に向かう前に、御旅山の山麓にある三角形の練り場で神輿合わせや屋台練りが披露される。この会場を広畑(広畠 ひろばたけ)という。御旅山の段々畑がやぐらを組んだように見える事から櫓畠(櫓畑
やぐらばたけ)とも呼ばれる。
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最初に登場した獅子屋台が御旅山に登っていくと、今年14年ぶりに屋根を新調し、漆を塗った神輿3基がそれぞれ幟(のぼり)を先頭に登場し、神輿合わせが行われた。「一の丸」は応神天皇(おうじんてんのう)、「二の丸」は神功皇后(じんぐうこうごう)、「三の丸」は(ひめおおかみ)の神輿で、練り子(ねりこ)たちは年齢別に決まった神輿を練る。神輿に丸がついているのは、故事により、神輿を船に見立てたもの。 |
神輿合わせでは、3台の神輿を相互に激しくぶつけ合う。神輿がぶつかるたびに大歓声が轟く。神輿同士が喧嘩しているようにみえることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになったが、同じ町のもの同士が神輿を練り合うだけなので、喧嘩しているわけではない。 |
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あきひてる けんかまつりに もえつきぬ |
Autumn
sun shining on the Kenka festival, a
man has breathed his last.
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▲ 最初の練り合わせで、大変な事故が起こった。何万人という大観衆の見守る前で、神輿同士がぶつかった瞬間、神輿に乗っていた57歳の白装束の男性が転落した。その直後、重さ350kgの神輿が倒れ、下敷きになった。直ぐに救出され、病院に運ばれたが、翌日の新聞で死亡したことが報じられた。 |
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死因は胸を圧迫されたことによる心臓破裂だという。10年前にも神輿を担いでいた18歳の男子高校生が死亡する事故が起きている。今回亡くなられた人は、現地で案内していただいた方の同僚の兄だという。心からご冥福をお祈りする。灘のけんか祭りの怪我人は毎度のことで、今年も宵宮・本宮あわせて22人の負傷者が出ている。祭りで大いに盛り上がるのは結構だが、事故だけは避けたいものである。
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▲ 初っぱなに事故が発生したものの、祭りは何事もなかったかのように続行された。改めて神輿合わせが行われ、神輿がぶつかるたび、倒れるたびに練り場を囲む大観衆から歓声が沸き上がる。会場は興奮の坩堝(るつぼ)と化し、その歓声に勇気付けられたかのように、練り子たちは益々エスカレートし、横転した神輿によじのぼりはじめた。 |
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一の丸の男たちが、倒れた神輿を起こして地面に据えた後、神輿に登り、屋根を足でばんばん蹴破りはじめた。これでもかこれでもかといわんばかりに執拗だ。14年ぶりに新調された屋根の一部があっという間に破壊された。そして神輿の上で揉み合っていた男が仰向けに転落したが、大事には至らなかった。 |
神輿には神様が乗っておられるのに、どうしてこのような狼藉を働くのか理解できない。景気よくぶつけ合うのはよしとして、足で屋根を蹴破るのはいかがなものか。 |
聞けば、神輿合わせは、激しければ激しいほど、神意に叶うとされているという。神と一体となった裸の男たちは自らに課された使命を忠実に果たそうとしているのだった。それが証拠に、神輿は毎年修復する必要があるため簡素な造りになっているのである。 |
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▲▼ 神輿合わせを終えた3台の神輿が御旅山の坂道を上っていくと、いよいよ6台の豪華な屋台が次々に練り場に登場し、祭りは最高潮に達した。灘祭りの屋台は、豪華で大きい。4人の乗り子を乗せた重さ2トンの大屋台を支える練り子は、100人を超える。妻鹿に至っては600人という大勢力を誇る。勢い余った木場の屋台が転覆しそうになった。バランスが崩れると、元に戻すのは至難の業である。 |
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屋台が3台になると、練り場は超満員となる。これまで4台の屋台が一度にそろったことがあるそうだが、この日は3台が最高だった。1台が御旅山へ向かい、場所が空くたびに、次の屋台が登場するという形で、総勢6台の屋台が披露された。 |
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「死ぬまでに一度は見て欲しい。」と地元の人は言う。イタリア旅行で知った「ナポリを見て死ね」という諺が脳裏を横切る。死亡事故は名誉の戦死で、祭りは平然と続けられる。地元民の灘のけんか祭りへの思いはそれほどまでに強く、ロマンあふれるものがある。 |
灘のけんか祭りを頂点とした播州の秋祭りは、昔からの伝統をかたくなに守り、世紀を超えても変わらない。地域の和。支える人々の心意気。ふる里への強い思い入れ...。播州から発せられるこの祭りの強烈なメッセージは、これからも人々の熱い思いを蘇らせてくれることだろう。 |
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私は、家内と二人で、二階席から「灘のけんか祭り」を見て、今まで眠っていたDNAが目覚めたのか、これから先、日本古来から変質することなく続けられてきた日本の裸祭りを激写し、ホームページに発表していこうと決意した。Wa☆Daフォトギャラリー10周年の節目まで、裸祭りシリーズ108作を発表し、日本一のサイトになり得たのはこのときの感動が引き金になっており、「灘のけんか祭り」は、私の裸祭りに取り組む原点となった。 |
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荒川神社小芋まつり |
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荒川神社 |
兵庫県姫路市 |
平成20年(2010)10月17日(日) |
撮影・原作:H. I. 監修:和田義男 |
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平成22年(2010)10月17日(日)、 兵庫県姫路市井ノ口(いのくち)に鎮座する荒川神社で「小芋まつり」と呼ばれる秋季例大祭が開催された。 |
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荒川神社の秋季例大祭は、町坪(ちょうのつぼ)、中地(ちゅうじ)、玉手(たまで)、岡田(おかだ)、井ノ口(いのくち)、西庄(さいしょう)の氏子六町の大幟(おおのぼり)と大人屋台(おとなやたい)六基を中心に、宮神輿と、氏子六町に西町坪(にしちょうのつぼ)を加えた子供樽神輿(こどもたるみこし)七基が繰り出す賑やかな裸祭である。 |
荒川神社の秋季例大祭は、別名「小芋祭」と呼ばれて親しまれている。これは、拝殿から馬場で練る屋台を見下ろすと、すり鉢の中で小芋を洗っているように見えることから名付けられたもの。 |
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てんたかく やたいをかざす ふどししゅう |
Guys of
loincloth, holding a wagon
to the high sky.
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清楚な白シデの |
町坪屋台 |
11:28 |
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馬場を練り上げ、石段入口までの坂道を登った屋台は、石段下で方向転換し、練子たちは力を振り絞って一歩一歩拝殿までの石段を登ってゆく。難所の石段登は、大きな見所となっている。 |
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午後1時頃、御旅所神事が行われたあと、屋台は、御旅所の空地に順番に並べられ、しばしの休憩に入る。 |
午後3時半ころから屋台の下山が始まる。御旅所で練り上げた屋台は、荒川神社の神宮寺であった本徳寺境内で差し上げを行った後、馬場へと続く坂道を下りて行く。この道は上りとは異なり、急勾配急カープが続くルートで、厳しい難所となっている。 |
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現在の井ノ口屋台は平成2年(1990)に新調され、3年後に漆が塗られた。屋台紋は前後が二引両、左右は三つ巴。平成9年(1997)に幕を新調した。最大の難所・山下りのため、練子たちは法被を脱ぎ捨て、褌一丁で下山してきたガッツに拍手を送りたい。 |
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しゅうれいや ふどしいっちょう やたいかき |
Bright autumn
day,
naked guys of a loincloth holding a wagon on their shoulders.
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褌一丁になった |
井ノ口 |
の |
練子 |
たち 16:12 |
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船橋大神宮子ども相撲 |
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船橋大神宮 |
千葉県船橋市 |
平成16年(2004)10月17日(日) |
撮影・制作:和田義男 |
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平成16年(2004)10月17日(日)、千葉県船橋市に鎮座する船橋大神宮で子ども相撲が奉納された。奉納相撲の主催者は、船橋大神宮奉納相撲執行委員会であるが、実質は氏子青年部。毎年10月20日の秋期例大祭に相撲が奉納されるが、平日は学校があるので、当日は大人のみとし、日曜日に子供の部が行われている。 |
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船橋大神宮の奉納相撲は、約400年前に徳川家康が鷹狩りで船橋に滞在した際、地元漁師の子供たちが相撲を取って見せたところ、大変喜んだ家康がこれを神社に奉納したことに始まるという。 |
家康の船橋御殿が廃止された後も、その広大な地所を与えられた大神宮の祭礼に相撲は欠かせない行事となった。江戸時代には行司の差し違いがあるたびに力士の応援者同士で喧嘩が起きたところから「船橋のけんか相撲」の異名がつき、関東でも屈指の草相撲として名を馳せたという。 |
船橋大神宮の奉納相撲は、戦後の混乱を脱した昭和25年(1950)に再開され、一時中断があったあと昭和54年(1979)に復活。その後四半世紀を迎え、今年は土俵を新調したとのことで、伝統の奉納相撲を幾久しく伝えていこうという意気込みが感じられた。 |
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▲ 相撲をとる子供たちは、テントでできたまわし小屋で、氏子青年会のおじさんたちにまわしを締めてもらった。まわしには「船橋大神宮氏子青年会」の表示がある。相撲クラブの子供たちは、自前のまわしを持参していた。 |
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今年の参加者は小学3年生から6年生までの139人で、その中に女子が11人いるという。女子はこのテントの左の部屋で、短パンの上からまわしを締めてもらっていた。数が多いので、ボランティアのおじさんも汗だくだった。 |
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はっけよい! |
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たいようを みいっぱいに みやずもう |
Dedicatory
sumo mach, exposing whole bodies
to the sun. |
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土俵際の上手投 / 三位決定戦 |
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▲▼ 午前中は、個人戦が行われた。3・4年の部と5・6年の部があり、女子と男子に分かれて対戦。熱戦や名勝負が繰り広げられ、次第に観客の目も真剣味を帯びてきた。 |
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昼休みになると、お母さん方による豚汁の炊き出しがあった。生徒に行き渡った後、一般にもふるまわれ、ご相伴にあずかった。空腹だったこともあり、とても美味かった。おかわりする子が沢山いた。その後、船橋大神宮奉納相撲の相撲甚句が紹介された。 |
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船橋大神宮奉納相撲 |
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ケンカ相撲の呼び名も高いヨ
ここは船橋大神宮
十月二十日の大祭に
江戸のころより伝わりし
奉納相撲の賑わいは
近郷近在の腕に覚えの若者の
力と技のせめぎ合い
心整え礼尽くし
土俵踏み締め胸あわせ
浜っ子たちの心意気 |
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まわし一本男気の
内がけ外がけよりたおし
下手差してのすくいなげ
八十二手なる決め技に
わきにわいたる境内は
実りの秋の風涼し
今年も豊年大漁の海山幸の有難さ
民の幸せ守りたる大神宮の大社
千代に八千代に栄えあれヨ
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見事な投げ技 |
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▲▼ 午後1時から団体戦が行われた。参加チームは11で、くじ引きにより組合せが決まった。チームは先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の5人。このうち先鋒と次鋒だけは、3・4年生から出さなければならない。3〜4人しか出せないチームは、欠員は不戦敗となる。3勝した段階で勝負が決まるが、全員対戦する。 |
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午後2時から表彰式が開かれた。個人戦5・6年の部の勝者には紫の優勝旗が、団体戦の勝者には紅の優勝旗が手渡された。優勝者には優勝カップが授与されたほか、入賞者には賞状、トロフィー、メダル、副賞など、豪華な賞品が授与された。 |
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団体戦二連覇の海神小学校 |
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船橋大神宮奉納相撲 |
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船橋大神宮 |
千葉県船橋市 |
平成17年(2005)10月20日(木) |
撮影・制作:和田義男 |
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平成17年(2005)10月20日(木)千葉県船橋市に鎮座する船橋大神宮で奉納相撲が行われた。午前11時、幼児によるこども相撲のあと、まわし(相撲褌)一本の選手たちが東西に勢揃いして個人戦の競技が始まった。今年の参加者は50名で、その内40名が地元自衛隊関係者。10名が部外からの参加者という。出場者名簿を見せてもらうと、木更津市から連続15回参加した人がいるほか、東京大学相撲部の名もあった。 |
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50人の力士が東西に分かれて対戦 |
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▲▼ 最初は個人戦が行われた。一番勝負、同じ者同士が続けて取り組み、二勝した方が勝つ二番勝負、三番勝ち抜き勝負と続き、勝者には賞品が授与された。 |
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三役揃踏のあと、東方と西方から代表(シード)選手が土俵に上がり、個人戦最後の大一番が行われ、強烈なはたき込みにより東方の力士が勝ち、トロフィやカップを手にした東の三役が事務局のカメラにおさまった。 |
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投げの打ちあい |
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▼ 午後1時半、今年から実施されることになった団体戦が始まった。習志野自衛隊、木更津航空補給処A、同B、海上自衛隊下総基地A、一般、駒場相撲クラブの7チーム35名が参加。一般は個別参加者が5名集まったチーム。駒場相撲クラブは東京から初めて参加した東京大学相撲部。熱戦の末、習志野自衛隊チームが団体戦を制した。 |
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こもれびの みやずもうはや よんひゃくねん |
The ritual sumo match
already passed
four hundred years
under the sun
streaming through
the leaves of trees. |
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下手投げ炸裂! |
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釣上古式子供相撲土俵入り |
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釣上神明社 |
埼玉県さいたま市岩槻区 |
平成21年(2009)10月18日(日) |
撮影制作:和田義男 |
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平成21年(2009)10月18日(日)、埼玉県さいたま市岩槻区釣上(いわつきく・かぎあげ)220に鎮座する釣上神明社(かぎあげ・しんめいしゃ)(高梨佳樹(たかなし・よしき)宮司)において、「古式子供相撲土俵入り」が行われた。 |
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さいたま市岩槻区(旧岩槻市)の古式子供相撲土俵入りは、釣上(かぎあげ)地区の他に、笹久保(ささくぼ)地区でも行われており、この双方が平成17年(2005)2月21日に「岩槻の古式土俵入り」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。 |
300年を超える歴史を持つ「古式子供相撲土俵入り」は、地区の氏神である釣上神明社に子供たちの健やかな成長を願い、毎年、神明社例大祭の10月21日に奉納されていたが、現在は10月21日に近い日曜日となり、今年は10月18日(日)に開催された。 |
子供のことを真砂子(まさご)ともいうことから「真砂子土俵入り」とも呼ばれ、「子供の土俵入り」とも俗称される。さいたま市教育委員会の説明では、行事名は「古式真砂子土俵入」となっている。保護団体は釣上神明社子供相撲保存会(橋本勇会長)であるが、祭礼は釣上神明社氏子総代会(森田邦利総代長)が主催する。 |
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▲▼ 子供たちが身につけている化粧廻しは、誕生を祝ってあつらえた専用のもので、表に名字が表示されている。日輪や鷹、虎、鯉など勇壮で縁起の良い柄を刺繍したものが多く、その豪華さ如何によって値段が決まるが、安いものでも20万円はかかり、高いものになると天井知らずという。 |
化粧廻しは、紐の付いた前垂れの上端部に褌を縫いつけたもので、前垂れと褌とが一本の帯(おび)になっている大相撲の化粧廻しとは違って、着脱に便利なように工夫されている。前垂れの裾に鈴がつけられているので、動くと鈴の音が響く。男児を授かった親の喜びと愛情が代々豪華な化粧まわしに表されてきた。 |
大相撲でも力士たちが化粧廻し(化粧相撲褌)を締めるときは、汚れないように白晒木綿の六尺褌か越中褌を締め、その上に化粧廻しを締めている。 |
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やっこふむ すもうわらべや どひょういり |
Ceremonial entrance to the ring, sumo children perform Yakko walk. |
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ヤッコ踏み(前姿) |
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ヤッコ踏み(後姿) |
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▲▼ 釣上神明社(かぎあげしんめいしゃ)では、釣上上組(かぎあげかみぐみ)、釣上下組(かぎあげしもぐみ)、釣上新田(かぎあげしんでん)、釣上新田南(かぎあげしんでんみなみ)の4地区に分かれて氏子組が組織され、それぞれ5人の氏子総代がいる。土俵入りに参加する子供たちは、宮本といわれる釣上下組の子供たちを中心に選ばれる。少子化の傾向にあるため、年々、選考する区域が広がっているという。 |
午後2時10分、いよいよ古式子供相撲土俵入りの奉納が始まった。土俵上の子供たちは、赤襦袢を脱ぎ、氏子役員に手渡した後、土俵を一周した。豪華な化粧廻しのお披露目ということだろう。 |
化粧まわしの披露が終わると、古式子供相撲の土俵入りに移った。最初は、年少組8人の出番。年長組9人が土俵の南に正座して見守るなか、片手を額に、片方を腰に、それぞれ掌(てのひら)を外側にして交互に当てながら歩く「ヤッコを踏む」所作(しょさ)が始まった。 |
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「ヤッコ踏み」は古式子供相撲土俵入りを特徴付けるもので、豆力士たちは、この所作を繰り返しながら土俵の外周を廻ったあと、東側から土俵の中に入った。 |
行司が土俵中央で北の神殿に向かって蹲踞(そんきょ)の姿勢を取り、その廻りを取り囲んだ年少組の豆力士たちは、蹲踞の姿勢から立ち上がり、様々な所作を組み合わせた土俵入りを披露した。 |
この後、年長組も年少組と同様に、土俵中央で北の神殿に向いて蹲踞(そんきょ)する行司の周りを廻りながら種々の所作を組み合わせた土俵入りを披露。最後に、橋本・池澤・森井くんの三役による土俵入りが行われた。 |
▼ 新しく完成した土俵をバックに、金棒曳(かなぼうひき)、行司、拍子木、力士のオールキャストが勢揃いして、記念写真を撮った。豆力士たちは、格好良く腕を組んでポーズを取った。お陰で、豪華な化粧廻しを一望することができたが、こうして見ると、豆力士たちには橋本・本橋くんが多い。 |
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鞍馬の火祭り |
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由岐神社 |
京都府京都市左京区鞍馬本町 |
平成14年(2002)10月22日(火) |
制作:和田義男 |
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火祭や鞍馬の宿の鉾飾 |
ひまつりや くらまのやどの ほこかざり |
Kurama
fire festival
displaying spears at villager's inns. |
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鞍馬の火祭りは、京都府京都市左京区鞍馬本町に鎮座する鞍馬寺(くらまでら)の鎮守社・由岐神社(ゆきじんじゃ)の例祭で、毎年10月22日に行われる。(雨天決行)
大小の松明を担いで「さいれーや、
さいりょう!」の掛け声とともに鞍馬街道を練り歩く紅蓮の炎の祭典として知られ、那智の火祭りや久留米市・玉垂宮(たまたれぐう)の鬼夜(おによ)とともに日本三大火祭りに数えられる。
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▲ 由岐神社の祭神は、元は京都・御所の内裏(だいり)にあった靱(ゆぎ)社に祀られていたが、都で大地震や天慶の乱が起き、朱雀天皇(すざくてんのう)(923-952)の勅により、天慶3年(940)、鞍馬の地に遷宮し、北方鎮護を仰せつかった。例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。 |
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▼ 午後6時「神事に参らっしゃれ」の合図(神事触れ)が響くと、鞍馬街道に沿った氏子約150軒の軒先のエジ(小篝火)に一斉に火がつけられ、祭りが始まる。まずトックリ松明を手に、色鮮やかな着物姿の幼児が街道一帯を行き来する。 |
続いて、小、中の松明を担いだ小学生、中・高生が加わり、鞍馬太鼓が「ドンコ、ドンコ、ドコ、ドコ、ドン」と打ち鳴らされる中、「さいれーや、さいりょう!」と掛け声を掛けながら通りを練り歩き、最後に、長さ5m・重さ80kgを超える大松明を3〜4人がかりで担いだ若者たちが加わる。 |
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午後8時頃、菊・桐・蝶・葵・鳳・百足・寺の鉾や鎧を着た武者が七つの宿から出てくると、山門前には大小の松明を担いだ若者たちが集合してひしめき合う。
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あちこちで高さ3mの大篝火が炎を吹き上げ、鞍馬の町の坂道は家々のエジ(小篝火)・松明・大松明で火の川と化し、山門前の石段は、黒い褌に白い下がりをつけた若者たちが担ぎ上げた大松明の火の粉が舞い、熱気と煙の匂いが立ちこめる。
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褌に下がりをつけた若者たちが大松明を担ぐ |
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▲▼ 松明は小さいものから巨大なものまで、この小さな町によくこれだけ担ぐ人がいたものだと思うほど、次から次に現われ、大勢の観客の前を練り歩いていく。 |
その数約500本。午後9時過ぎ、町内各地区の鉾が大小の松明の先導で神輿が据えられた山門前の石段に勢揃いし、「さいれーや、さいりょう!」の掛け声の中、炎と火の粉の饗宴は佳境を迎える。 |
午後9時20分ころ、合図の太鼓とともに注連縄(しめなわ)切りの儀が行われ、青葉の精進竹に張られた注連縄が切られる。続いて神輿渡御が始まり、火の粉が舞うなか、神輿2基が若者たちに担がれて山門から下りてくる。各神輿の後には鎧武者が乗り、石段では二人の若者が夫々の神輿の先の担い棒に足を逆さ大の字に上げてぶら下がる。これをチョッペン (chyoppen) の儀といい、かっては鞍馬の若者が成人になるための儀式であった。 |
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▲▼ 神輿の背後には綱がつけられ、坂や石段から神輿が急に降りないよう町の乙女たちが綱を引く。神輿を引くのに女性が参加するのもこの祭の特色だ。この綱を引くと安産になると伝えられているので若い女性が多い。 |
山門を下ったところから神輿は車に乗せられ、町内を巡幸し、お旅所に着くと神輿は再び担がれる。神楽の囃子にあわせて4本の大きな神楽松明が各々4〜5人の若者たちに担がれて巡回する。神輿が御旅所に安置されて儀式が終わるのは午後12時頃になる。 |
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火祭りは午後6時からだが、始まる前に大篝や大松明を据え、鉾を飾っている七仲間の宿の飾席(かざりせき)も見ておきたい。祭のクライマックスは午後8時〜10時半頃。大勢の観客で身動きできないほど混み合う。帰りの叡山電車の待ち時間は1〜2時間。鞍馬温泉に宿泊するには一年前にくじ引きで決められるので、宿泊は不可能。 |
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